終末期、まさに死なんとする時、「生きている価値が無い」は、どのようなかたちになるのであろうか。幸福にも私は、余命何年ですといった宣告を受けるような大病を患ったことがない。不幸は幸福の反対側にいるのではなく隣にいて、だから私は終末期の状態を、体験をもって語ることができない。終末期の人にじっくりと寄り添ったこともない。しかし、見方を変えるなら私は、自分の体験にとらわれることなく、論じることができる。真実は体験の中にあるわけではない。
さて、「生きている価値が無い」ならば、死んでもかまわないと、理屈ではそうなる。
しかし、「生きている価値が無い」と言っている人が死期に至ると、その苦悩はより深刻なものになると私は思う。何故ならば、「生きている価値が無い」と言うのは、生きている価値が欲しいという願望が根底にあるにちがいないからである。生きている価値が見つからないままに死ななければならないことを意味する。
一方、「生きている価値が有る」と言っている人が死期に至ると、理屈からいうと死は喪失に他ならない。死は価値ある生を失うことを意味する。ならば彼らが悲嘆のどん底に追いやられるかと言うと、必ずしもそうではない。
「生きてきた価値が有った」と感じると死を比較的受け入れやすいのではないか。「やるだけのことはやった。私の生死は神様にお任せしよう。子どもたち、後輩たち、後はよろしく」。神様は仏様であってもいい。宗教色を排するなら、絶対者や
“Something Great” でもよい。人格を排するなら、「天」でも「自然」でも「運命」でもよい。
「生きている価値が有る」と言ってきた人は、「生きてきた価値が有った」と現在形を過去形(正確に言うと現在完了形)に変えねばならない。変えるということはしなければならないが、少なくとも素材はある。一方、「生きている価値が無い」と言ってきた人は、「生きてきた価値が有った」とは言えない。
「人のいのちを奪うとは」というテーマに即して言えば、死はまさに「人のいのちが奪われる」ことを意味する。しかしながら「生きている価値がある」人生を送ってきたと思える人は、死は「人のいのちを奪う」ものではなく「人のいのちを全うする」ものと置き換えるのが可能ではないか。
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