「ボランティアに純粋性が必要か?」を考えてみようとしている。まず、定義。
ここで言うボランティアは、前回(736)で述べた「独り善がりボランティア」を含まない。何らかの他者への役立ちがある。弊害があっても役立ちより小さい。金銭目的ではない。
「ボランティアが生きがいだ」「楽しいからボランティアをしている」という人がいて、それを批判的に見る人もいる。ボランティアは相手の為にするものであって、「生きがい」とか「楽しい」とか、自分の為にするなら、ボランティアではないという。また、ボランティアとは無償でするものであって、お金をもらったらボランティアではないという人もいる。
また、ボランティアをしている人に、自己顕示欲とか自己肯定欲求とか承認欲求(誉めてほしい)を強く感じることがある。ボランティアをしない人を一段低く評価している(自己肯定欲求の裏返し)のを感じる事もある。
仲間が欲しくて、誰かと一緒に何かをしたくて、あるいは、自分の活動の場が欲しくて、そのためにボランティアに参加する人も多い。
無償でひたすら相手の為にすることを「純粋性」とここでは呼び、自分本位なところを「不純な部分」と呼ぶことにする。
「ボランティアをしている人」を見ていて
「純粋性」 << 「不純な部分」
(「不純な部分」が「純粋性」よりはるかに大きい)と感じることがある。
尊いことをしていることには間違いないのだが、
「ボランティア」と名付けるのには、戸惑いを感じる。
さて、「ボランティアに純粋性が必要か?」という問いかけに対する「私の答」を書く。多くの答がありえて、どれが正しいとは簡単には言えない。私の意見を言うのであって、他に押し付けようとは思っていないので「私の答」である。
(1)
ボランティアに純粋性は必要ない。純粋かどうかなど考えず、良いことはどんどんすればよい。「これはボランティアだ」と言ってよい。お金については、報酬が主目的でなければ貰ってもボランティアと言ってよい(報酬を目的とするなら、ボランティアとしてではなく、ビジネスとして社会に貢献すればよい)
(2)
純粋性のないボランティアは危うい
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