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2016年12月13日火曜日

(721) 「生きている価値が無い」(3) / 「人のいのちを奪うとは」(4)


「人のいのちを奪うとは」をテーマとした「哲学カフェはりま」で、

「生きている価値が見つからない」
「生きている意味がわからない」

--- 「そうだ」「そうだ」
「子どもの時は、そんなこと考えなかったのに」

 
という話が出てきた(12月3日)。

  

「理由は、はっきりしている」と私は言った。
だから、解決の方向性も見えている。

 
「バランスが崩れている」「頭でっかちになっている」
というのが、私の答である。

だから「心や体をもっと働かせればよい」
というのが、私の答である。

 

子どもの時は、頭も使っていたが、
心も体も使っていたので、

「生きている価値」や「生きている意味」なんて、
考えなかったし、考える必要もなかった。

 

 
そもそも、「生きている価値」や「生きている意味」は、
机や椅子や林檎のように、その当たりに
ころがって「在る」ものではない。

 
探して見つかるものではない。

 

必死に生きていて、なんで私はこんなに
必死に生きているのだろうか? と考えて、

なんとなく理由らしいものが見つかって、
それを言葉で表したものが、

「生きている価値」や「生きている意味」だと思う。

 

だから、

「生きている価値」や「生きている意味」が見つからないから
必死に生きていけないのだ、と言っている間は、
 
そこから一歩も動けなくなる。

 
必死生きていないから、
「生きている価値」や「生きている意味」が見つからない
のだ。

 

じっとしていて、頭の中で
「生きている価値」や「生きている意味」を考えても

答は出ない。

体を動かして、心が動いて、感じ取っていくものだろう。

 

勿論、現実はそんなに単純なものではない。

 
大きな失敗をして、

罵られて、

自信をなくして、

裏切られて、

大切な人を失って、

愛を失って、…

様々な理由で
人は「生きている価値」や「生きている意味」を見失う。

 
「こうしたらいいよ」と言われて、
簡単に取り戻せるものではない。

 

しかし、そうではあるのだが、
もし幸運にも

「生きている価値」や「生きている意味」が
その後、見つかったとするなら、

その時点で過去を振り返ると、きっと、
上記プロセス(必死に生きていて…)が含まれているにちがいない。

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