「大仏と大仏殿はその後、治承4年(1180年)と永禄10年(1567年)の2回焼失して、その都度、時の権力者の支援を得て再興されている」( wikipedia 『東大寺盧舎那仏像』)。
「時の権力者の支援を得て」とあるが、そう単純なものではなかったようである。そして、その事情は、今後の日本のあり方に、重要な示唆をあたえるものである。
放送大学 面接授業(12/10,11)「ボランティアと社会」(出口正之講師)で学んだことから考察する。
天平15年(743)10月15日、聖武天皇は仏教の教えによって、国民ひとりひとりが思いやりの心でつながることによって国を鎮め、平和を導きだそうと、次のような「盧舎那仏造顕の詔」が発せられた。東大寺のホームペーシーより後半のみを引用する。整理のため、文ごとに箇条書きの要領で書き改めた。
===== 引用 はじめ
(1)
夫れ天下の富(とみ)を有(たも)つ者は朕なり。天下の勢(いきおい)を有つ者は朕なり。
(2)
此の富勢を以て、此の尊像を 造ること、事の成り易(やす)くして、心は至り難し。
(3)
但し恐らくは徒(いたずら)に人を労(つから)することありて、 能く聖を感(かまく)ること無く、或いは誹謗(ひぼう)を生(おこ)して、反(かえ)って罪辜(ざいこ)に堕せんことを。
(4)
是の故に、知識に預(あずか)かる者は、懇(ねんご)ろに至誠を發っして、各(おのおの)介福(おおいなるふく)を招き、
宜(よろ)しく日毎に盧舎那佛を三拝し、自(おのずか)ら當(まさ)に念を存し、各(おのおの)盧舎那佛を造るべし。
(5)
如(も)し更(さら)に、人の、一枝(ひとえだ)の草(くさ)、一把(ひとにぎり)の土(ひじ)を持(もち)て、像を助け造らんことを
請願するものあらば、恣(ほしいまま)に之を聴(ゆる)せ。国郡等の司、此の事に因(よ)って、
百姓(ひゃくせい)を侵(おか)し擾(みだ)して、強(し)いて収斂(しゅうれん)せしむること莫(なか)れ。遐迩(かに)
に布告して、朕が意(こころ)を知らしめよ。
===== 引用 おわり
この詔を次のように解説している(これも、箇条書き風に書き換えた)。
===== 引用 はじめ
(a)
このように聖武天皇は、菩薩の大願を発して盧舎那大仏造立を国民に呼びかけました。広く賛同する人々を集め、共に喜びをわかち合おうと。
(b)
ただ、富と権力によって無理強いするのでは造立の本意が達成されない。
(c)
従って、大仏造立に賛同する人達は、心からの誠を起こし、広くて大きい幸せが来るように願い、毎日三度盧舎那仏を礼拝するように。
(d)
つまり、無理矢理命令されて参加するのではなく、大仏造立に関わる人達一人ひとりが、自分自身の盧舎那仏を造るようにと言っておられるのです。
===== 引用 おわり
(同上)
これは、世界の歴史上、類を見ないアプローチである。
時の権力者が国民や奴隷を酷使し、自分の威光を示すため大きな建造物を建立するのが一般的である。しかし、聖武天皇は、「富と権力によって無理強いするのでは造立の本意が達成されない」として、そのようにはしなかった。
聖武天皇が大仏の建立の中心人物に『大僧正』の位を授けた。その人を中心として、民間の資本(寄付)と民間のボランティアで作ったという。今日の言葉で言えば、国営事業ではなく民営事業として推進させたらしい。
聖武天皇はケチで、国の金を使わず、国民負担で、国民にやらせた、と見ることもできるだろうが、全く違う見方も成立する。二つのポイントがある。
第一に、大仏は「作らされたもの」ではなく、「我々が作ったもの」という意識である。これがあるから後世、大仏と大仏殿が焼失するや、それを再興したいと人々は願った。
第二に、「時の権力者が大仏の建立の中心人物に『大僧正』の位を授ける。民間の資本(寄付)と民間のボランティアで作る」というビジネスモデルである。これがあるから後世、大仏と大仏殿が焼失するや、同じモデルで、『大僧正』を中心として再興できた。
その結果、二度の焼失にもかかわらず、大仏と大仏殿は「持続」している。このことは、「持続システム」が機能していることを意味する。この「持続システム」は、時の権力者によるものでないことが大切である。権力者は持続しないので、権力者は「持続システム」を維持できないのである。
このことの現代的な意味については、稿を改めて述べる。
図(ともに東大寺HPより):「聖武天皇(画・小泉画伯)」「大仏開眼の供養の場面」
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