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2020年11月21日土曜日

(2160)  『伊勢物語』(4-2) / 100分de名著

 

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(K1301)  個人Blog 11月中旬リスト <サイト紹介>

http://kagayakiken.blogspot.com/2020/11/k1301-blog-11.html

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業平のような“権力を脅かさない異端”は許容され、その能力に対して役割が与えられました。別の道を与えられたことで、やがて異端の花が開き、それがメジャーになっていった。「反権力」ではなく「脱権力」

☆☆

 

第4回  23日放送/ 25日再放送

  タイトル: 歌は人生そのもの

 

放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50

再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55

 及び        午後 00:00~00:25

 

 

【テキストの項目】

(1)  思いは解ってもらえないという虚無

(2)  業平の最期

(3)  歌人業平の成長プロセス

(4)  名歌鑑賞① ありのままの思いを詠う

(5)  不完全であるがゆえの魅力

 

(6)  名歌鑑賞② 権力から離れて

(7)  日本美の源流

(8)  無常観という美意識

(9)  歌は時を超える

 

【展開】

(1)  思いは解ってもらえないという虚無

(2)  業平の最期

(3)  歌人業平の成長プロセス

(4)  名歌鑑賞① ありのままの思いを詠う

(5)  不完全であるがゆえの魅力

 以上は、既に書きました。

 

(6)  名歌鑑賞② 権力から離れて

 業平の歌のもう一つの魅力は、権力から離れた者たちの心情を詠っているところです。東下りの道中の歌がその代表作と言えるでしょう。

    駿河なる宇津の山辺のうつつにも

      夢にも人にあはぬなりけり

 地の文を読むと、業平らが歩いていた宇津の山道は暗くて細く、「すずろなるめを見ることと思ふ」とあります。「すずろなる」とは、思うに任せない、虚しい、心細い、ということ。これはまさに「身を要なきもの」に思ったということと重なります。宇津の山の「うつ」は「うつろ」にもつながってくるでしょう。

 

(7)  日本美の源流

 『伊勢物語』は、日本人が持っている美意識の源流です。

    ちはやぶる神代も聞かず龍田河

      からくれなゐに水くくるとは

《神代の音にも聞いたことがございません。この龍田川の紅葉は、唐紅の色に括り染めをしたように、紅くまだらに、錦をなしております。何と華やかで哀れなことでございましょう。

 神の代から今日の日、さらに末々まで、この艶やかさは色褪せません。》

 この歌は、紅葉の時期にもみじの葉が川面を紅く染めている様を詠ったものです。

 これほど鮮やかに、日本の秋の風情を詠い上げた歌があるでしょうか。

 

(8)  無常観という美意識

 『伊勢物語』に見られるもう一つの日本的美意識は、無常観です。

    行く水と過ぐるよはひと散る花と

      いづれ待ててふことを聞くらむ

 川の流れは止まることがない。満開の桜はやがて散る。その散りゆく花の中で自分も死にたい。移り行くものに人生を重ね合わせる無常観は、長い時の中で日本人に根付いた人生観と言えます。その感性は、およそ千百年前の「伊勢物語』にすでにあるものでした。

 自然や無常観を詠んだ歌も多く、惟喬親王から鳴長明、そして松尾芭蕉へと至る隠遁者へのシンパシーといつた日本的惑性の源流でもあるのです.

 

(9)  歌は時を超える

 新しい文化は、異端の人がつくっていきます。

 業平は、当時の貴族社会では異端の人でした。官僚はみな漢詩文をたしなみ、漢字で日記を付けていたという時代にあって、漢詩が苦手で和歌を得意としたからです。しかし、異端だから潰されたかというと、そうではありませんでした。なぜなら、業平は政治的に権力を脅かす存在ではなかったからです。

 それから千百年経った現在、藤原氏の権力などもう何も残っていませんね。残っているのは業平の歌です。つまり、文化こそが残っていくものであり、永遠の命を持っているのです。

  

<出典>

髙木のぶ子(2020/11)、『伊勢物語』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)



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