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(K1282) 還暦からの底力(出口治明) <定年後>
http://kagayakiken.blogspot.com/2020/11/k1282.html
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「知らない」に関係するのは私だけで、他の人は関係ありません。私が知っているかどうかだけ。一方、「分からない」に関係するのは、私だけでなく、相手も関わります。相手の説明不足でも私は分からなくなります
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これから書くことは、私の場合はこうです、というだけで、他の多くの方は違うと思います。どちらが良いかという話ではなく、「いろいろな人がいるのだな」という話です。
自ら「知らない」と言うのはためらいますが、「分からない」と言うのはためらいません。何故なのか。
「知らない」に関係するのは私だけで、他の人は関係ありません。私が知っているかどうかだけで決まります。
一方、「分からない」に関係するのは、私だけでなく、相手も関わります。私に理解力がなくてわからないこともありますが、相手の説明不足でも私は分からなくなりますし、相手の考えがまとまっていなかったり、相手の言い分に矛盾があったり、相手が間違っていたりしても、やはり、私は分からなくなります。そして、私は理解力がある方だと思っているので、私が分からないことが起きたら、その原因は、私ではなく相手にあるだろうと思います。だから、「分からない」と言っても、自分を責める言葉ではないのです。
「知らない」と言うのにはためらいがありますが、内面では不快ではなく、むしろ喜びです。何故なら、「知らない」と分かったのは、大きな発見であり、それを知ることにより、私は一歩進歩します。知らないことを知らないままでいると停滞したままになってしまいます。過去を振り返ると、知らなかったのは落ち度になりますが、未来に目を転ずると、知らなかったという事実を知ることができたのは、私がより成長できる契機であり、喜ばしいことなのです。
「知らない」とためらいなく言えることもあります。それは、私にとって関心の無い領域のことです。例えば、芸能界のゴシップは、ほとんど知りません。知ろうとしないから、実際に知らない。それは私にとって関心がないので、私にとって知る価値のないことです。それを知らなくても何ら恥じることはなく、むしろ、無駄なところに自分の大切な資源(時間や集中力)を投資しない生き方であり、誇らしい生き方でもあるからです。
ただ、場を盛り上げる流れに水を差すようで、申し訳ないという気持ちもあります。それでもやはり、芸能会ゴシップを知ろうとする努力は、その後もしないでしょう。
私にとって大切な領域で知らなかったことがあったのは、痛恨の極みです。
他の人との関係性をよくするために知識を増やそうとしている人は偉いなと思いますが、真似をしようとはしません。
<出典>
なし。
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