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(K1289) 適正な枕で体をリセット、整形外科医「5㎜単位で調整を」 <体の健康>
http://kagayakiken.blogspot.com/2020/11/k1289-5.html
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本来の「ダイバーシティー」は、多様性を許す。しかし、今の「ダイバーシティー」は、「ダイバーシティーでないこと」を許さない。LGBTの人々への「過度な支援」に疑問を呈すると激しいバッシングを受ける
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世の中で●●であればあるほどよい、ということは、ほとんどない。例えば、払う税金は安い方がよいと誰もが思いそうだが、究極、税金をゼロにすると社会が成り立たないことは誰もがわかるだろう。大会社からたくさん税金を取ればよいという声があるが、行き過ぎると大会社は皆倒産してしまう。稼げない日本は輸入する金がなくなるので、食べるものすら手に入らなくなる(日本の食料自給率37%)。ある一局面だけを見ていると正しいように見えても、全体を見ると正しくなく、結局うまくいかなくなる。どこかで折り合いをつける必要がある。
===== 引用はじめ
新自由主義を推進した小泉純一郎政権時代の「自己責任」、古くは高度経済成長期の田中角栄政権時代の「列島改造」など、どの時代にも切り札的な言葉がある。令和2年のいま、まさに「ダイバーシティー」がその言葉になっているように感じられる。誰もが童謡詩人、金子みすゞの詩の一節《鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい》とともに口にするようになった。「みんなとちがう」ことで誰も傷つくことのない社会を目指すのは私も大賛成だ。
===== 引用おわり
ダイバーシティーの方向に向かうのは良いが、最適点は、ダイバーシティーと非ダイバーシティーの中間あたりにある。多様性がありすぎると収集が着かなくなくなる。多様性は基本的には、バラバラの方向に向かう。バラバラでありながら全体を最適な状態に保つには、相当の力量が必要であり、コントロールの力量を超えた多様性を認めると、その集団は崩壊する。
もう一つ、奇妙なことが起こっている。そもそもダイバーシティーは、多様な違いを認め、尊重することである。ダイバーシティーと非ダイバーシティーとの両方があって、両者がせめぎ合いながら最適点を探っていくのが、健全な姿だろう。
ところが、最近のダイバーシティーは、非ダイバーシティーを徹底的に排除するようになってしまった。自ら「ダイバーシティー」という基本理念を捨ててしまっている(多様性を捨て、全てが自分と同じ意見でないと許さない)。「過度なダイバーシティー」について語ると、袋叩きになるという奇妙なことが起こっている。
<出典>
「多様性神話」にとりつかれた日本社会
【モンテーニュとの対話 「随想録」を読みながら】 産経新聞(2020/11/06)
https://www.sankei.com/premium/news/201107/prm2011070003-n1.html
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