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2021年2月27日土曜日

(2258)  『100分de災害を考える』(1-2) / 100分de名著

 

◆ 最新投稿情報

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(K1399) 「新老人(60代から80歳代まで)」 / 自立期と仕上期との間にて(14) <自立期~仕上期>

http://kagayakiken.blogspot.com/2021/02/k1399608014.html

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関東大震災あとの横浜から鎌倉にかけては「丘陵のふもとを縫う古い村家が存外平気で残っているのに、田んぼの中に発展した新開地の新式家屋がひどくめちゃめちゃに破壊されてい」たのを寺田は目の当たりにしました

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第1回  1日放送/ 3日再放送

  タイトル: 寺田虎彦『天災と日本人』--「自然」とのつながり

 

放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50

再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55

 及び        午後 00:00~00:25

 

【テキストの項目】

(1)   いのちの危機

(2)   開かれた場所で

(3)   文明は災害を鎮圧できるのか

(4)  「私たち」という視点

 

(5)  「忘れる」ということ

(6)   忘却しないために「忘れる」

(7)  「相地術」とは

(8)   慈母の自然、厳父の自然

(9)   涙なき悲しみ

 

【展開】

(1)   いのちの危機

(2)   開かれた場所で

(3)   文明は災害を鎮圧できるのか

(4)  「私たち」という視点

 以上は、既に書きました。

 

(5)  「忘れる」ということ

 災害が深刻になる要因として寺田は、人が過去を忘れることを挙げています。「災害は忘れた頃にやってくる」という一節を聞いたことがある人も多いのではないかと思います。

 なぜ人は、災害を忘れてしまうのでしょうか。それは「可能性」として語られる災害はつねに他人事だからです。「いつか」「そのうち」来るとわかっていても、自分が遭遇することは、ほとんど想像できないのです。

 科学による防災が進むはずだ。私が罹災するはずがない。願望的に未来をとらえる態度は、過去を顧みる眼を曇らせます。私たちが願望的に未来を見ようとすればするほど、自然の本当の姿は見えなくなるのです。

 

(6)   忘却しないために「忘れる」

 もちろん、私たちは「忘れる」ということを別な観点からも考えなくてはなりません。けっして「忘れ得ない」出来事を、心のある場所にそっと置くようにすることをあえて「忘れる」と語ることがあります。大切な人を、あるいは故郷を失う。このことを人が「忘れる」ことなどありません。しかし、それとつねに正面から向き合うのではなく、別なかたちでの「つながり」ができることがあります。

 こうした心のありようを「忘れる」と呼ぶのだとしたら、私たちはそれをどうにかして生み出していかなくてはならない。しかし、この場合、「忘れる」という営みは、けっして忘却しないために行う人生の態度なのではないでしようか。

 

(7)  「相地術」とは

 災害後に現地調査をした寺田は、ある重大な出来事に気がつきます。古い建物が地震に耐えて残り、新しいものほど壊減的な被害を受けているのです。 … 現在は、技術的に可能でさえあれば、山を崩し、水辺を埋め立て、縦横に道を拓いて、人間が建てたいところに、建てたいも

のを、ときに異様な高さで建てています。

 台風や大きな損害、破壊を伴う地震(烈震)が多い日本では、「ここに家を建てると危ない」「あの森を伐ると山津波が起こる」など、それぞれの土地の「相」を見る知恵が培われてきました。しかし、近代化を急いだ日本は、西欧の建築技術や建築様式をやみくもに採り入れ、土着の相地術を非科学的で古くさいものとみなすようになったというのです。

 

(8)   慈母の自然、厳父の自然

 「自然の神秘とその威力を知ることが深ければ深いほど人間は自然に対して従順になり、自然に逆らう代わりに自然を師として学び、自然自身の太古以来の経験を我が物として自然の環境に適応するように務めるであろう。前にも述べた通り大自然は慈母であると同時に厳父である。厳父の厳訓に服することは慈母の慈愛に甘えるのと同等に吾々の生活の安寧を保証するために必要なことである。」(「日本人の自然感」)

 第一線の科学者でありながら、科学偏重の罠を説き続けた寺田は、また「人は自然を利用するために解析するのではなく、その声に「従順にな」るために学ぶとき、そこに現代でいう科学とは異なる、新しい「学問」が生まれてこなくてはならない」とも訴えています。

 

(9)   涙なき悲しみ

 人は悲しいときに泣くのではなく、それが溢れたときに泣く。涙を溢れさせることができない状況では、人は泣くことができない。被災者に限らずそういう側面はあると思います。

 悲しい人は、必ずしも泣いているとは限らない。私たちはそのことを忘れてはならないと思います。あまりに苦しく、あまりに悲しいとき、日に見える涙は涸れることがある。

 色々な不仕合わせを主観して苦しんでいる間はなかなか泣けないが、不幸な自分を客観し憐れむ態度がとれるようになって初めて泣くことが許される。

 他者の悲しみに心を寄せることは本当に難しい。しかし、その困難に寄り添っていこうとするところに生まれるのが、私たちを過去と自然とそして他者とつなぐ叡知なのかもしれません。

 

<出典>

若松英輔(2021/3)、『100de災害を考える』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)

 添付写真は、「寺田寅彦の名言集・格言集」より

https://meigen.keiziban-jp.com/terada_t




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