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(K1398) 最期まで幸せな気分で <仕上期>
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寺田虎彦。一つは物理学者。理化学研究所、航空研究所、地震研究所で、それぞれ研究室を持ち、多彩の研究をほとんど間断なく発表。他の一面は、吉村冬彦(随筆)として、わが国の文学史上に不朽の足跡を止めている
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第1回 1日放送/ 3日再放送
タイトル: 寺田虎彦『天災と日本人』--「自然」とのつながり
【テキストの項目】
(1) いのちの危機
(2) 開かれた場所で
(3) 文明は災害を鎮圧できるのか
(4) 「私たち」という視点
(5) 「忘れる」ということ
(6) 忘却しないために「忘れる」
(7) 「相地術」とは
(8) 慈母の自然、厳父の自然
(9) 涙なき悲しみ
【展開】
天災の猛威は、私たちが「自然」とのつながりを、いかになおざりにしてきたかという厳しい現実を突きつけました。近代科学が造りあげてきた建造物はことごとく破壊され、人口が集中する都市部では甚大な被害を生みました。それは、科学を盲信するばかりに、自然の声を聴かなくなってしまったことの帰結ではないか。そう警鐘を鳴らしたのが、科学者であると同時に文学者でもあつた寺田寅彦の『天災と日本人』です。
(1) いのちの危機
震災は、いつ起こっても突然の出来事です。東日本大震災のあと、「未曾有の災害」あるいは「想定外の事態」という言葉が盛んに飛び交いました。しかし、あの震災は、本当に、未だかつて一度もなかった災害、まったく想像の及ばない事態だったのでしょうか。
優れた科学者であつたために、寺田は、科学の限界がはっきりと見えていたのだと思います。科学の目は「事実」を認識するのは得意だが、「現実」を認識するのは不得意である。寺田はそのことに気づいていました。それが可能だったのは、彼が「科学者の眼」と「文学者の眼」を併せ持っていたからではないでしょうか。こうした複眼の人は、災害はいつも、二つとない「いのち」の危機であることを決して見過ごすことがないのです。
(2) 開かれた場所で
今回ご紹介する『天災と日本人』は、そんな寺田が発表した随筆のなかから、災害に関するものを集めた一冊です。ここでの「日本人」という表現には少し注意が必要かもしれません。寺田は狭い意味での日本主義を意図して語ってはいないからです。
災害という試練を超えて生きる、そのために私たちは、真の意味で「世界人類の健全な進歩」という普遍的な場所に開かれた存在として生きていかなくてはなりません。自国の文化を愛することと、他者に向かって開かれていくという態度は矛盾しません。
(3) 文明は災害を鎮圧できるのか
ここで一つ考えなければならないことで、しかもいつも忘れられがちな重大な要項がある。それは、文明が進めば進むほど天然の暴威による災害がその劇烈の度を増すという事実である。
現代に生きている私たちは、文明が発展すればするほど、自然災害への備えも万全となり、かつてのような惨事は避けられると考えがちです。治水技術によって大水を手なずけ、治山を進めれば土砂崩れは防ぐことができると思っている。しかし、実際はどうでしょう。たとえば近年頻発する集中豪雨では、河川の氾濫や土砂災害による被害が大きくなっています。別の言い方をすれば、私たちはどんどん災害に弱くなっている。
文明の進化を妄信している人間自身が、災害が大きくなる、その原因を作っているのだ。
(4) 「私たち」という視点
寺田の慧眼は、災害を個々人の生活の影響においてだけでなく、「共同体の脅威」としてとらえた点にもあります。災害は個人にだけ起こるわけではない。それは「私」を超えた「私たち」の次元でも生起するのです。
現代の言葉でいえば「ライフライン」が崩壊する、というのです。ひとたび大きな自然災害が発生すると、交通網は寸断され、広範な一帯が停電し、携帯電話やインターネットが使えなくなります。 … 新型コロナウイルス感染症は、まさしく共同体に対する脅威です。収束の鍵を握るのは、一人ひとりが「私たち」の意識を広げ、考え、「私たち」として行動できるかに尽きるのではないでしようか。
以下は、後に書きます。
(5) 「忘れる」ということ
(6) 忘却しないために「忘れる」
(7) 「相地術」とは
(8) 慈母の自然、厳父の自然
(9) 涙なき悲しみ
<出典>
若松英輔(2021/3)、『100分de災害を考える』、100分de名著、NHKテキスト(NHK出版)
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