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=====(K0265) 絆は、傷を含む / 抱樸(2) <インクルーシブ社会>
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Eテレ
第3回 1月22日放送/1月24日再放送
月曜日 午後 10:25~10:50
(再)水曜日 午前 05:30~05:55午後 00:00~00:25
前回は「文明」について考察した。今回は「征韓論」について考察する。
私たちが共有する、もっとも「常識」的な征韓論へのイメージは、既得権益をはく奪された不平士族の不満や怒りのはけ口として西郷隆盛の「征韓論」が利用された。
そうではないという「征韓論争」がある。
先ず、西郷隆盛は「征韓」あるいは「征韓論」という言葉を一度も使っていない。…毛利俊彦『明治六年政変』(中公新書
1979)
板垣退助は、外交関係を拒絶した朝鮮への派遣を声高に主張した(征韓論)。それに対して西郷隆盛は、平和的に開国を迫るために自らを使節として派遣することを提案した。その際、単身で、「烏帽子直垂を着けて」乗り込もうと主張した。これは要するに、兵隊を率いずに、正装して威儀を正して訪問するということである。
西郷は「西洋は野蛮だ」(5)、「道理が広くいきわたって行われる」のが文明だ(1)として、「文明の国ならば、未開の国に対しては、慈愛の心を持って接し、懇々と説諭を加えて開明に導く」(6)と言った(前回(1123)参照)。西郷はまさに「文明の国」として行動しようとし、これは「征韓論」の対極にある。
現在、歴史研究者の間では、「征韓論」は対外問題のように見えて、実は国内における派閥争いだという見解もでてきている。岩倉使節団の大久保らが不在の間に、西郷らが革新的な政治改革を次々と進め、江藤新平の力が強大になっていた。帰国して活躍の場所がないような状況に感じた岩倉や大久保らが危機感を抱き、自分たちの権力基盤を確立すべく、権力闘争が起きた。そして闘争の相手を排除するために、つまりあくまでも国内政治を有利に運ぼうという論理で、「征韓論」が使われたということになる。まさに「有司専制」(ごく少数の、自分の息のかかった官僚だけで明治政府を独占しようとする)である(第1回(1111)参照)。
西郷や板垣ら「征韓派」を論争・政争のうえ追い落とした大久保ら「内治優先派」は、すぐに江華島事件を起こして朝鮮への武力介入を実行した。
板垣退助が「征韓論」を主張し、西郷隆盛が反対した。板垣・西郷が失脚したのち、大久保らが「征韓論」を実行した。
出典
先崎彰容(2018/1)、西郷隆盛『南洲翁遺訓』、100分de名著、NHKテキスト(NHK出版)
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