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=====(K0116) みとり(日本初のホスピス大阪から) / 「寄り添う」(3) <臨死期>
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『100分で名著』 8月28日(月) 22:25 ~ 22:50 Eテレ
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=====引用はじめ
一歩逃げ遅れた田村は、手榴弾の破片でもぎ取られた肩の肉の泥を払って口に入れる。自分の肉を自分で食べる――。それは田村の自由でした。
泉の向こうから全身を現した安田を永松が撃ち、蛮刀で手首と足首を断ち落とした現場を見て田村は嘔吐します。しかし、この一連の流れを田村は「予期していた」。田村は、自分が天使として「神の怒り」を代行しなければならないと考えます。永松が安田を撃った銃を奪い、銃口を永松に向ける。「この時私が彼を撃ったかどうか、記憶が欠けている。しかし肉はたしかに食べなかった。食べたなら、覚えているはずである」。
それから田村がどうしたかは書かれません。ここで、彼の意識は完全に途切れ、レイテ島の戦場での出来事は終わるのです。
=====引用おわり
小説『野火』はここで終わらず、「狂人日記」の章に移る。田村は精神病院に収容されている。あれから六年が経過し、記憶喪失に陥っている。そして最大の後遺症は、肉を食べられなくなっていることである。精神科医によるカウンセリングの一環として、田村は手記を書いていた。
続く「再び野火に」「死者の書」の二章で田村は、戦場最後の日々を思い出そうとする。自分がしようとしていた「神の代行」について問い続ける。神とは何か、そして「野火」とは何かと、くだくだしく考えていく。
『野火』を書いた大岡にとっての『野火』
(1) 大岡は自分が捕虜となって生き延びたという罪悪感を強く抱いていた。兵士たちはどのように死んだか、その事実を明らかにすることが、生き残った自分にとってできる戦友の死への鎮魂、そして残された遺族への責任であると考えた
(2) 極限状態において、倫理、道徳はどのように発揮されるかを検証した
(3) 検証作業を徹底し、現実に即したコトバを厳しく選ぶことを通じて、戦争の生々しい現実を他者に伝達した
『野火』を読む人にとっての『野火』
(1) 「戦争」というコトバもまた一般名詞として、好戦派も反戦派も子どもも使うけれども、誰も本当の悲惨さはわっかていない。しかし、大岡をはじめとする戦争体験者が戦争を語るときは常に実感が前提にある
(2) 『野火』を読むことは、日常化してしまった自分の行動や感情を、もういちど捉え直し、組み立て直し、再現する作業である
(3) 大岡の事実への拘泥、本能と理性の探求の姿勢を受け継ぎ、歴史家にはできない細部を再現することを通じて、創作上の可能性が拡張される
9月の「100分de名著」は、
講師:仲正昌樹(金沢大学教授)
~ 悪は凡庸さのなかにある ~
ナチス・ドイツによるユダヤ人問題の「最終解決」。それはある時期のある地域に特有の問題だったのか? それとも―――。ナチスの迫害を逃れた一人のユダヤ系ドイツ人学者の著書を通じて、「人間にとって悪とは何か」「悪を避けるために私たちはどうすべきか」について考える。
テキストは、8月25日発売予定。
出典:
島田雅彦、大岡昇平『野火』~汝、殺すなかれ、「100分DEで名著」、NHKテキスト(2017/8)
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