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2019年12月14日土曜日

(1817)  ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』(3-2) / 100分de名著

 
◆ 最新投稿情報
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(K0958)  マリーケ・フェルフールトさんの安楽死 / 死に方について考えたい(1) <安楽死>
http://kagayakiken.blogspot.com/2019/12/k0958-1.html
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ドストエフスキーは、この作品を二部構成の物語として構想した。第一の小説のなかに物語の終焉へと向かう「終わる物語」と、「第二の小説」へと展開していく「始まる物語」。それぞれのベクトルを持っている
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第3回  16日放送/ 18日再放送
  タイトル: 「魂の救い」はあるのか
 
放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55
 及び        午後 00:00~00:25
 
【テキストの項目】
(1)  アリョーシャの信仰の揺らぎ
(2)  アリョーシャの精神的復活
(3)  ミーチャの戦いと三千ルーブル
(4)  追い詰められるミーチャ
(5)  モークロエへ
 
(6)  カーニバルの終わりは突然に
(7)  予審
(8)  餓鬼の夢
(9)  10編「少年たち」の持つ意味
(10)社会主義者コーリャ
(11)ガチョウ事件
 
【展開】
(1)  アリョーシャの信仰の揺らぎ
(2)  アリョーシャの精神的復活
(3)  ミーチャの戦いと三千ルーブル
(4)  追い詰められるミーチャ
(5)  モークロエへ
 以上は、既に書きました。
 
(6)  カーニバルの終わりは突然に
 ドストエフスキーの文学の大きな特徴としてしばしば「カーニバル性」ということが言われます。カーニバル性とは、社会のヒエラルキーが取り払われ、あらゆる価値の平準化が起こる状態のことを言います。
 モークロエでのカーニバルのさなか、ミーチャはフョードル・カラマーゾフ殺害の容疑者として逮捕されました。
 
(7)  予審
 第9編「予審」は、ミーチャによる法(あるいは世間の常識)との戦いの物語です。ミーチャの戦いを困難にしているもの、それは「恥辱」の感覚でした。ミーチャのなかでは、金を返さない「卑怯者」になることは、殺人をおかすことより「恥」として認識されていました。
 
(8)  餓鬼の夢
 「餓鬼(ガキンコ)」の夢が、浄化の決定的なきっかけとなり、ミーチャに二回目の「回心」が起こりました。この夢をとおして、自分の不幸は世界の不幸だという認識にいたります。
 「親父の血にかんして、ぼくは無実です! 罪を受け入れるのは、親父を殺したからじゃない、殺したいと思ったから、ひょっとするとじっさいに殺しかねなかったから、なんです…」
 
(9)  10編「少年たち」の持つ意味
 いよいよ第4部に入ります。ミーチャの物語はいったん中断され、冒頭の第10編「少年たち」では、第2部でアリョーシャと知り合った小学生たち、とりわけコーリャ・クラソートキンという少年にフォーカスが当てられます。
 この第4部から、「第二の小説」(「皇帝暗殺」という第二の父殺しの物語)が早くも始動します。ここには、いままさに終わろうとする物語と、始まろうとする物語の、それぞれのベクトルを持った二つの物語が混在しています。
 
(10)社会主義者コーリャ
 コーリャ・クラソートキンという少年の重要性については、どんなに強調しても強調したりないほどです。なぜなら、「第二の小説」のいわば動力となるこの少年について、アリョーシャが「きみは将来、とても不幸な人になります」と謎めいた予言を行っているからです。
 
(11)ガチョウ事件
 コーリャは頭の悪そうな若者に向かって、燕麦を積んだ荷車の車輪の下にガチョウが首を突っ込んで麦粒をついばんでいるが、いま馬車を前に動かしたらガチョウの首は車輪にちょん切られてしまうと思うか、と質問します。当然だという答えに…
 
<出典>

亀山郁夫(2019/12)、ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)

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