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=====(K0146) 単行本「定年女子」 / 定年女子 <定年後>
http://kagayakiken.blogspot.jp/2017/09/k0146.html
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(1002)でいきなり“「苦労した」と言う人は、苦労しなかった人だと思います”と書いた。私の実感・直感からでてきた言葉だが、それはどういうことか、なぜそうだと言えるのか、説明していないのが気になっていた。仮想の物語を作って、考察する。
===== 「仮想の物語」はじめ
会社で解決困難な大きな問題が発生した。本来は関係ないのに、私がその解決を命令された。「婆を掴まされる」とは、このことだ。上司に訴えたが、「命令だ」と言うだけで拉致があかない。
心を入れ替えて、逃げずに取り組むことにした。しかし、問題の根は深く、悪戦苦闘しても見通しが立たない。見るに見かねたのか、Aさんが自発的にサポートしてくれた。
事態は少し改善したが、結局、解決できずに会社に大きな損害が生じて、その問題は終わった。
===== 「仮想の物語」おわり
この「仮想の物語」が記憶にどう残るか。
「普通の人」には、次のような記憶が残るのではないか
(1) 私は、理不尽な命令を受けた
(2) 頑張ったけれど、解決できなかった
(3) そのため会社に大きな損害を与えてしまった
(4) しかし、その責任が私にあると言われるのは、承服できない
(5) 本当に私は、苦労させられた
これとは違う、「別の人」もいる。その人にも同じような記憶は残るが、それは頭の隅に追いやられる。次のような記憶が頭の中心を占める。
(1) 私は、「命令」は筋違いだと思ったが、引き受けた
(2) その問題解決のために、私は最大限の努力をした(3) Aさんが自発的にサポートしてくれた。とても嬉しかった
(4) 結果や評価はどうであれ、私にできることは全てした
「普通の人」が、命令が理不尽だと思い、募る不満に気をとられてしまったとしたら、解決のための努力に手が回らない。「解決のための苦労」はしていないのに、与えられた環境が「苦労」だと思い、「私は苦労した」と言う。
「別の人」は、筋違いの命令でも引き受けたこと、解決のために最大限の努力をしたことで、自分なりの満足感がある。自発的にサポートしてくれたAに深く感謝する。「Aが助けようとした自分」に誇りを感じる(私が最大限の努力をしたから、サポートする気になってくれた。Aにとって私は助けるに値する人間であったから、サポートしてくれた)。結果的に、会社に損害がでたが、私以外の誰が担当しても、避けられなかったと確信している。外的な評価はどのようなものであれ、自分の自身に対する評価は揺るがない。
この人は、「問題解決のための苦労」をたくさんしたが、それはあまり記憶に残らず、満足感と感謝と自尊心が記憶に残る。「私は苦労した」とは言わない。
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