◆ 最新投稿情報
=====(K0145) 個人Blog 9月中旬リスト <サイト紹介>
http://kagayakiken.blogspot.jp/2017/09/k0145blog.html
=====
9月25日放送/9月27日再放送
『100分で名著』
Eテレ 放映月曜日 午後10:25~10:50
(再)水曜日 午前05:30~05:55、午後00:00~00:25
第4回 悪は「陳腐」である
(1) アイヒマンとは何者か
(2) アイヒマンが突き付けた問題(3) アーレントに向けられた批判
(4) 誰もがアイヒマンになりうる
<陳腐>
表題“悪は「陳腐」である”の「陳腐」を辞書で引くと「古くさいこと。ありふれていて、つまらないこと」とあるが(デジタル大辞泉)、ここでは「ありふれて」の意味で使っている。
<アイヒマンとアーレント>
アイヒマンは、ナチス親衛隊(SS)の中佐だった人物で、ユダヤ人を強制収容所や絶滅収容所に移送し、管理する部門で実務を取り仕切っていた。アルゼンチンに潜伏していたが拘束され、エルサレム法定の裁判(1961年)を受けた。
『全体主義の起原』を著したアーレントはその後、「人間」の歴史的起源を探り、その哲学的探求は、『人間の条件』として結実した(1958年)。
<『エルサレムのアイヒマン』:陳腐>
アーレントは自ら『ザ・ニューヨーカー』誌に志願し、特派員としてエルサレムに赴いて裁判を傍聴し、『エルサレムのアイヒマン』を著した。『エルサレムのアイヒマン』は、裁判の傍聴録という形を取りながら、全体主義体制における道徳的「人格」の解体について考察している。
アーレントによれば、アイヒマンは、どこにでもいそうな、ごく普通の人間だった(banal:陳腐)。若い頃から「あまり将来の見込みのありそうもない」凡人で、自分で道を拓くというよりも「何かの組織に入ることを好む」タイプ。組織内での「自分の昇進にはおそろしく熱心だった」とアーレントは綴っている。
アーレントが見たアイヒマンは、自らが「法」と定めたヒトラーの意向に従っただけの、平凡な官僚だった。たまたま与えられた仕事を熱心にこなしていたにすぎず、そこには特筆すべき残忍さも、狂気も、ユダヤ人に対する滾るような憎しみもなかった。
<複数性>
悪は平凡なものではなく、「悪を行う意図」を持った非凡なものであるという思い込み、期待、あるいは偏見。近代の法体系ですら、それを前提としているとアーレントは指摘している。
アイヒマンを死刑に処すべき理由は、彼に悪を行う意思があったかどうか、彼が悪魔的な人間だったかどうかということとは関係なく、人類の「複数性」を抹殺することに加担したからだと主張している。
人間は、自分とは異なる考え方や意見もつ他者との関係のなかで、初めて人間らしさや複眼的な視座を保つことができるとアーレントは考えていた。多様性といってもいいだろう。アイヒマンが加担したユダヤ人抹殺という「企て」は、人類の多様性を否定するものであり、そうした行為や計画は決して許容できない。
<実験>
条件が整えば、誰でもアイヒマンになり得る。このことは、「ミルグラム実験」や「スタンフォード監獄実験」で示された。ごく普通の人も、一定の条件下では権威者の命令に服従し、善悪の自己判断を超えて、かなり残酷なことをやってのける。
<無思想性>
考えるという営みを失った状態を、アーレントは「無思想性」と表現し、アイヒマンは完全な無思想に陥っていたと指摘する。
アーレントのいう無思想性の「思想」とは、そもそも人間とは何か、何のために生きているのか、というような人間の存在そのものに関わる、いわば哲学的思考である。
私たちは日々、いろいろなことを考えている。しかし、本当に「考える」ことができているだろうか。実は既成観念の堂々めぐりを「無思想に」処理しているだけではないだろうか。
10月は、『歎異抄』 講師:釈 徹宗
===== 引用はじめ
信じる心は一つである。
浄土真宗の開祖・親鸞の教えは逆説に満ちた革新的なもので、それゆえに現代に至るまで多くの人々を救う一方、少なからぬ誤解も受けてきた。「悪人正機」をはじめとする『歎異抄』に収められた親鸞の言葉と、苦悩と矛盾に満ちた親鸞の生き方から、現代社会をよりよく生きるためのヒントを探る。
===== 引用おわりテキストは、9月25日発売予定。
2016年4月のアンコール放送で、当時のテキストがそのまま利用できる。
※ このFacebook(Blog)では取り上げ済み【(467) (473) (480) (487)】なので、
新たには書かない。
出典:
仲正昌樹、ハンナ・アーレント『全体主義の起原』、「100分DEで名著」、NHKテキスト(2017/9)
0 件のコメント:
コメントを投稿