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2020年6月1日月曜日

(1988)  カント『純粋理性批判』(1-2) / 100分de名著


◆ 最新投稿情報
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(K1129)  元気で長生き、は理想であって現実ではない / 自立期と仕上期との間にて(5) <自立期~仕上期>
http://kagayakiken.blogspot.com/2020/06/k1129-5.html
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感性という認識能力により、空間・時間の枠組みで直観を得る。さらに悟性という認識能力により、純粋概念の枠組みで、判断を得る。それとは別に理性があり、推論という枠組みで理念を得るが、暴走することもある
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第1回  1日放送/ 3日再放送
  タイトル: 近代哲学の二大難問

放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55
 及び        午後 00:00~00:25

【テキストの項目】
(1)  十年の沈黙を破って出版された大著
(2)  カントが生きた近代ヨーロッパ
(3)  近代哲学が直面した二大難問
(4)  主観と客観は一致できるか
(5)  カントを震撼させたヒュームの警告
(6)  カントは何を「批判」したのか

(7)  主観の共通規格は存在する
(8)  感性と悟性の働き
(9)  コペルニクス的転回

【展開】
(1)  十年の沈黙を破って出版された大著
(2)  カントが生きた近代ヨーロッパ
(3)  近代哲学が直面した二大難問
(4)  主観と客観は一致できるか
(5)  カントを震撼させたヒュームの警告
(6)  カントは何を「批判」したのか
 以上は、既に書きました。


(7)  主観の共通規格は存在する
 ヒュームは、主客一致が不可能であることを示し、科学は客観的知識ではないと主張したのでした。このヒュームの挑戦に対して、カントは「認識の客観性」を再建しようとしました。
 カントは「客観世界への一致は不可能だが、世界について皆が共有しうる認識は成り立つ。なぜなら、どの主観も一定の共通規格をもっている(共通のメガネをかけている)からだ」と主張しました。

 カントは、私たちの認識をめぐって世界を二つに峻別します。
 カントは、私たちが認識できるのは、私たちの主観()に像を結んだものだけであるとします。 この、私たちそれぞれの心に現れた世界(各人に見えている世界)を「現象界」と呼びました。「私にとっての世界」と言い換えてもいいでしょう。
 他方でカントは、私たちが決して認識し得ない「物自体」、つまり主観的な認識以前の、客観的な物そのものの世界があると考えます。これを「叡知界」と呼びます。
 私たちは、主観のなかに現れ出た現象(現象界)しか認識できず、物自体(叡知界)を認識するごとは不可能です。これがカント認識論の大前となります。

(8)  感性と悟性の働き
 私たちの日常的な認識(一輪の花が花瓶に挿してある)を成り立たせるのは、主観の認識の「共通規格」です。その主観の共通規格(メガネ)は二肩構進になっており、感性+悟性というかたちになるのです。
 カントに従えば、私たちは感覚器官を通じて受けとった多様な感覚(視覚・嗅覚・聴覚・触覚・味覚など)を、「空間」と「時間」という二つの枠組みのなかで整理しています。この二つの枠組みでもって多様な感覚を位置づける認識能力を、「感性」と呼びます。
 こうして位置づけられた感覚を、カントは「直観」と呼びます。とはいっても、こうして感性によって空間・時間のなかで直観されるものは、まだ非常に漠然としています。

 この茫漠たる感覚の束を整理・統合して「判断」をもたらすのが「悟性」の働きです。感性で提えた茶色い広がりを「これはテーブルだ」と認識するためには、テーブルという概念が必要になります。
 空間・時間のなかに多様な感覚を位置づけるのが「感性」の働きであるのに対し、多様な感覚を概念で整理することによって明確な判断をつくり出す働きが「悟性」と呼ばれます。
 感性に空間・時間という形式があったように、悟性にも判断のさいのさまざまな形式が備わっていますが、これは第2回であらためて説明します。

(9)  コペルニクス的転回
 カント認識論のエッセンスは「認識が対象に従うのではなく、対象が判認識に従う」というフレーズに集約されるでしよう。
 ふつう私たちは、客観がまずあってそれを主観が写し取る(客観→主観)と考えます。しかしカントは逆に、主観のア・プリオリな枠組みが現象としての客観をつくり出す(主観→客観)と考えるのです。まさしく発想の大転換です(コペルニクス的転回)。
 このように、一切の認識は人間の主観()に現れたものでしかないとすると、科学の知も主観的なものにすぎず、合理的で客観性のある知とはいえなくなりそうです。そこでカントは、どんな主観にも共通する規格があると考えることによって、共有可能な客観的な認識が成り立っことを説明します。

 近代哲学が直面した難問のひとつに「主客一致の問題」があります。カントはこの問題を、主観と客観を一致させるのではなく、主観同士を一致させるという形で解決したのです。そのような認識論のもとでは、自然科学を基礎づけるために、主観と客観の一致を論じる必要はありません。
 ここで重要なのは、私たちの認識の枠組みがア・プリオリに備わっていること、言い換えるならば、経験によって獲得したものではないことです。感性や悟性の形式があらかじめ備わっているからこそ、自然科学の知は客観的で共有できると主張します。
 「ア・プリオリ」は、ラテン語に由来する言葉で、「先天的」とも訳されますが、「あらかじめ」「そもそも」といった意味合いです。


<出典>
西研(2020/6)、カント『純粋理性批判』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)




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