◆ 最新投稿情報
=====
(K0591) 死を見つめる心(2) 死に直面して初めて、自分の生き方を問われた <臨死期>
http://kagayakiken.blogspot.com/2018/12/k0591-2.html
=====
第3回 17日放送/ 19日再放送
タイトル:自由
放映は、 月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、 水曜日 午前 05:30~05:55
及び 午後 00:00~00:25
【テキストの項目】
(1) 「自由」とは何か
(2) 自由の反対は「強制」である(3) 能動と受動
(4) 「意志」は自由ではない
(5) 意志と意識の違い
(6) 「意志の神学」と現代社会
【展開】
(1) 「自由」とは何か
(2) 自由の反対は「強制」である(3) 能動と受動
以上は、既に書きました。
(4) 「意志」は自由ではない
①
スピノザの「自由」とは「自発性」のことではない
スピノザの「自由」とは「自発性」のことではありません。自発的であるとは、何ものからも影響を受けずに、自分が純粋な出発点となって何ごとかをなすことを言います。スピノザ哲学においては、自発性は否定されます。なぜならば、いんなる行為にも原因があるからです。自分が自発的に何かをしたと思えるのは、単にその原因を意識できていないからです。
②
「意志の自由」「自由意志」は存在しない
自由意志は純粋な出発点であり、何物からも影響を受けていないものと考えられています。しかし、そのようにものは人間の心の中には存在しえません。人間は常に外部からの影響と刺激の中にあるからです。
(5) 意志と意識の違い
①
「行為」は「意志」だけでなく、多くの要因によって規定されている
一つの行為は実に多くの要因の影響下にあります。それらが協同した結果として行為が実現するわけです。つまり、行為は多元的に決定されているのであって、意志が一元的に決定しているわけではないのです。多元的な要因とは、身体内の協応構造(*)、意識せずに従っている習慣、脳内の運動プログラム、フロイトが論じた無意識などです。
(*) 身体内協応構造というのは、脳からの意識が運動に関わる筋肉それぞれ別々に指令を出すのではなく、指令を受けた運動に関わる筋肉が横の連携をとって自立的に運動を完成させることをいう。
② 私たちは「意志(Will)」の存在を「意識(Consciousness)」する
スピノザは意志が自由な原因であることを否定しましたが、私たちが意志の存在を意識することは否定していません。
③ ある考えについて考えが作られることが、意識である
観念について観念が作られること、言い換えれば、ある考えについて考えが作られること、それが意識です。
④ 「意識」は「行為」に影響を与えることができるが、万全ではない
人間の精神の特徴一つは、意識を高度に発達させ、それによって自らの行為を反省的にとらえることができるようになった点にあります。だから意識は行為に影響を与えることができます。
しかし意識は万能ではありません。先に述べた「行為を決定する多元的な要因」を意識したり統制するのは、難しいです。
⑤ まとめ
行為において意識は何らかの役割を果たすのです。スピノザは意志が自由な原因であるという思い込みを批判しました。しかし、それはあなたの意識の否定ではありません。あなたはロボットではありません。意識は万全ではないし、意志は自発的ではない、ただそれたけのことです。
(6) 「意志の神学」と現代社会
①
「意志教」のようなものへの信仰
現代ほど、「意志」「意志決定」「選択」といったものが盛んに言われる時代も珍しいと思われます。 … 現代社会はある意味で、「意志教」のようなものを信仰しているのではないでしょうか。
②
古代ギリシャには「意志」はなかった
たとえばプラトンを読んでも意志の話は出てきません。プラトンには有名な「魂の三区分」という考え方がありますが、その三つというのは知性・欲望・気概で、意志の場所はありません。③ 意志を信仰しつつ、意志に取り憑かれ、意志に悩まされている
私はこの意思という概念に現代社会が取り憑かれているという気がしてなりません。何もかもが意志によって説明されてしまう。私たちは意志を信仰しつつ、意志に取り憑かれ、意志に悩まされているのではないでしょうか。
「意志教」信仰を解除すれば、私たちはもうすこしだけ自由になれるのではないでしょうか
<出典>
國分功一郎(2018/12)、スピノザ「エチカ」、100分de名著、NHKテキスト(NHK出版)
0 件のコメント:
コメントを投稿