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2018年12月1日土曜日

(1439)  スピノザ「エチカ」(1-2) / 100分de名著

 
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第1回  3日放送 / 5日再放送

  タイトル: 善悪
 
放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55
 及び        午後 00:00~00:25

 
【テキストの項目】
(1)   スピノザの三つの名前
(2)  「哲学する自由」を求めて
(3)  「神すなわち自然」――汎神論
(4)  『エチカ』はどんな本か?

(5)   組合せとしての善悪――倫理学の始まり
(6)   スピノザの感情論
 

【展開】
(1)   スピノザの三つの名前
(2)  「哲学する自由」を求めて
(3)  「神すなわち自然」――汎神論
(4)  『エチカ』はどんな本か?
 以上は、前回に書きました。
 
 
(5)   組合せとしての善悪――倫理学の始まり

  完全と不完全
 スピノザは、すべての個体はそれぞれに完全なのだと言います。自然の中のある個体が不完全と言われるのは、単に人間が自分の持つ一般的観念、つまり「この個体はこうあるべきだ」という偏見と比較しているからであって、それぞれはそれぞれに完全なものとしてただ存在しているのです。「障害」にも当てはまります。「障害」というのも、マジョリティの視点から形成された一般的観念に基づいて判断された名付けにすぎません。個体は、一個の完全な個体として存在しています。

  善と悪
 自然界に完全/不完全の区別がないのと同じように、それ自体として善いものとか、それ自体として悪いものは存在しません。
 しかし、私たちには善悪という言葉があります。スピノザは「組合せとしての善悪」という考え方を提唱し、音楽を例として説明しました。
 「憂鬱の人」つまり落ち込んでいる人と音楽が組み合わされて、その人に力が湧いてきたとすれば、音楽は善いものです。「悲嘆の人」、たとえば亡き人を悼んでいる状態にある人にとって、音が悲しみに浸る邪魔になるのであれば、音楽は悪いものです。「聾者」つまり耳が不自由な人には、音楽は良くも悪くもありません。
 倫理を考えるには、善い生き方、悪い生き方を考えなければいけません。スピノザは、善悪をどのような意味で言うべきかを提案しています。
 なぜ音楽は「憂鬱の人」にとって善いのでしょうか。それは音楽が落ち込んでいる人の心を癒し、その人が本来持っていた力を取り戻す手助けをしてくれるからでしょう。つまり力を高めてくれるからです。スピノザはこのことを「活動能力が高まる」という言い方で表現します。
===== 引用はじめ
 我々は我々の存在の維持に役立ちあるいは妨げるもの[…]、言いかえれば[…]我々の活動能力を増大しあるいは減少し、促進しあるいは阻害するものを善あるいは悪と呼んでいる。(第四部定理八証明)
===== 引用おわり
 道徳は既存の超越的な価値を個々人に強制します。そこでは個々人の差は問題になりません。それに対しスピノザ的な倫理はあくまでも組み合わせで考えますから、個々人の差を考慮するわけです。個別具体的に考えることをスピノザの倫理は求めます。
 個別具体的に組合せを考えるということは、何と何がうまく組み合うかはあらかじめ分からないということでもあります。スピノザの倫理学は実験することを求めます。どれとどれがうまく組み合うかを試してみるということです。
 

(6)   スピノザの感情論

 スピノザの善悪の考え方は、その感情論と直結しています。
 スピノザによれば、感情は喜びと悲しみの二つの方向性を持っているのですが、より大きな完全性へと移る際には、我々は喜び(愛・共感など)の感情に満たされているのだと言っています。反対は悲しみ(ねたみ等)です。
 スピノザは「何びとも自分と同等でない者をその徳ゆえにねたみはしない」と言います。クラスメートをねたみますが、空を飛んでいる鳥はねたみません。ねたんでいるとき、自分の外側にある原因(ねたみの対象)に自分が強く突き動かされてしまっているわけですから、自分の力を十分発揮できない、つまり活動能力が低下しているのです。より小さい完全性へと向かいつつあります。
 


<出典>
國分功一郎(2018/12)、スピノザ「エチカ」、100de名著、NHKテキスト(NHK出版) 

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