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(K0589) 死を見つめる心(1) 死の疑似体験 <臨死期>
http://kagayakiken.blogspot.com/2018/12/k0589-1.html
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第3回 17日放送/ 19日再放送
タイトル:自由
【テキストの項目】
(1) 「自由」とは何か
(2) 自由の反対は「強制」である
(3) 能動と受動
(4) 「意志」は自由ではない
(5) 意志と意識の違い
(6) 「意志の神学」と現代社会
【展開】
(1) 「自由」とは何か
①
この本が目指す最終目標は「人間の自由」である
最終部である第五部は「知能の能力あるいは人間の自由について」と題されています。② 「束縛がない」ことが「自由」ではない
「自由」という言葉を私たちはふつう「束縛がない」「制約がない」という意味で使うと思うが、スピノザはそのようには考えません。
③ 「必然性」に従うことが「自由」である
魚には水の中で泳いで生きるという条件が課されています。それは確かに制約であり必然性です。ですが魚が自由になるとは、その必然性を逃れることではありません。魚は水の中で泳いで生きるという必然性にうまく従って生きることができた時にこそ、その力を余すところなく発揮できる。魚を陸にあげれば死んでしまいます。人間の身体や精神にも、これと同じような必然性があるということです。
(2) 自由の反対は「強制」である
①
自由の反対は「強制」である
強制とはどういう状態か。それはその人に与えられた心身の条件が無視され、何かを押しつけられている状態です。その人に与えられた条件は、その人の本質と結びついています。ですから、強制は本質が踏みにじられている状態といえます。あるいは外部の原因によってその本質が圧倒されてしまっている状態と言ってもいいでしょう。
②
例えば「復讐心」に囚われておれば「強制」の状態である
(略)
(3) 能動と受動
①
「能動」とは、自分が「原因」になることである
不自由な状態、強制された状態とは、外部の原因に支配されていることである。ならば自由であるとは、自分が原因になることでしょう。では、自分が原因になるとはどういうことか。スピノザはこれを「能動」という言葉で説明しています。
②
「原因」とは、結果の中で自らの力を「表現」するものである
存在するすべての物は神の本性あるいは本質を一定の仕方で表現する[…]。言いかえれば[…]存在するすべての物は神の能力を――万物の原因である神の能力を一定の仕方で表現する。(第一部定理三六証明)
③
私の「行為」が私ではなく、他人の力をより多く「表現」している時、私は「受動」である
私は自らの「行為」において自分の力を「表現」している時に「能動」である。それとは逆に、私の「行為」が私ではなく、他人の力をより多く「表現」している時、私は「受動」である。
④
「行為」の方向では「能動」と「受動」を区別できない
カツアゲを例として取り上げます。銃を持った相手から「カネを出せ」と脅かされた私が、自らポケットに手を入れてお金を取り出し、それを相手に手渡したとします。その時、お金を渡す私は能動でしょうか、受動でしょうか。ふつう能動と受動は、行為の方向、行為の矢印の向きで理解れています。行為の矢印が、私から外に向かっていれば能動であり、矢印が私に向かっていれば受動というわけです。
この定義を採用すると、カツアゲの例では、相手が私から金を奪ったのではなく、私は自らのお金を出しているので、行為の方向からすれば能動になってしまいます。
ところがスピノザの能動/受動の概念ならば違います。銃で脅かしてくる相手に私がお金を手渡すという行為は、その相手の力をより多く表現しているので、私は受動になります。
⑤
まとめ
自由であることは能動的になることであり、能動的になるとは自らが原因であるような行為を作り出すことであり、そのような行為とは、自らの力が表現されている行為を言います。ですから、どうすれば自らの力がうまく表現される行為を作り出せるのかが、自由であるために一番大切なことになります。
⑥
完全に「能動」になることも、完全に「自由」になることもできない
スピノザはいつも度合いで考えるのです。私たちは完全に能動になれないけれど、受動の部分を減らし、能動の部分を増やすことはできます。完全な自由はありえませんが、こまでよりすこし自由になることはできます。
以後は、後日書きます。
(4) 「意志」は自由ではない
(5) 意志と意識の違い(6) 「意志の神学」と現代社会
<出典>
國分功一郎(2018/12)、スピノザ「エチカ」、100分de名著、NHKテキスト(NHK出版)
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