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2018年2月27日火曜日

(1161)  (6) 坪内逍遥『小説神髄』 / 「明治の50冊」

 
◆      最新投稿情報
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(K0302)  社会参加(5) / トライアングル理論(28) <定年後>
http://kagayakiken.blogspot.jp/2018/02/k0302-528.html
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===== 引用はじめ
 時は明治維新から約20年後。当時20代の若き文筆家、坪内逍遥は文学評論『小説神髄』で、小説への「写実主義」の導入を提唱。日本文学を一変させる“発火点”となり、同時代や後世の作家に多大な影響を与えた。
===== 引用おわり
 

 坪内逍遥の果たした役割は、
 
===== 引用はじめ
 文芸批評家で早稲田大文学学術院教授の渡部直己氏は、逍遥の功績について「単なる娯楽として当時低く見られていた文学の地位を高め、美術へと発展させたこと」と指摘する。

 「逍遥の功績は、議論の発火点を作り、その上で近代文学の花を咲かせたこと。日本の近代文学は『小説神髄』から始まったのです」(渡部教授)

 同時期を生き、辛口の批評で知られた評論家、内田魯庵は「坪内君は明治の文学の大いなるエポック・メーカーである」と評した。つまり、時代を切り開いた先駆者だ、と。
===== 引用おわり
 



 『小説神髄』の下巻で、それまでの日本文学にない概念だった「主人公」の設置など技術論を説いた。喜怒哀楽に嫉妬、愛欲など老若男女の心の内幕を詳細に描き、「世態風俗」(世の中の様子)を写実的に描写するリアリズムこそが小説において重要だ-と主張した。
 
 しかし「皮肉なことに逍遥自身は『小説神髄』で自ら批判した“呪縛”から逃れられず、後に小説執筆を断念」した。
 
 その一方、

===== 引用はじめ
 東大卒の文学士という超エリートの逍遥が提唱した“急進的”文学理論は、二葉亭四迷ら有識者に強い衝撃を与えた。

 二葉亭らも同書を批判したが、これらの文学論争が後に初の言文一致体小説『浮雲』につながり、後年の自然主義文学へと昇華していく。
===== 引用おわり
 
 


【プロフィル】坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)

 安政6年5月(1859年6月)、美濃(岐阜県)で尾張藩士の家に生まれる。東大で英文学を学んだ際、試験で悪い成績点を付けられたことをきっかけに英国の文芸批評を学び、それが後の『小説神髄』につながった。主な著書に小説『当世書生気質』など。明治24(91)年、文芸雑誌『早稲田文学』を創刊。シェークスピア作品の全訳を行うなど演劇の近代化にも貢献した。昭和10(1935)年、死去。
 


引用
近代日本文学の“発火点” 坪内逍遥『小説神髄』 産経新聞(2018/02/22)

(6)坪内逍遥『小説神髄』 近代日本文学の“発火点”
http://www.sankei.com/life/news/180219/lif1802190017-n1.html
(添付図はこのサイトから転載)


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