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=====(K0163) 「認知症者を受け入れる環境整備」(高齢者居場所の認知症カフェ化) / 認知症者の居場所(10) <脳の健康>
http://kagayakiken.blogspot.jp/2017/10/k016310.html
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前回(1021)、Hisako Nakayama さんから詳しいコメントをいただいた。
自分を考えるよいきっかけになりました。ありがとうございます。
以下に比較しながら、私の考えを整理する。
私はすべて個性だと思っているので、
「どちらが良いか」なんて議論はできない。決められない。
「私は私。他人は他人」
それぞれが、自分らしく生きるのが、一番大切なことだと思う。
【Hisako
Nakayama】さんの場合 ←→ 私の場合
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【他人からどう見られているか気になる。全くならないと言えば嘘になりますが概ね気にならない。】 ←→ 私の場合は、気にしている(気にしてしまう)面と、気にかからない(気づいていない)面と、両方あると思う
【何故かと考えると、自分がどう見られていても訂正が出来ないから。】 ←→ 私自身は変えられない(性格は変わらない・主義主張は変えない)が、言動は変えられる(訂正できる)
【私に嫌な印象を持たれてもわたしにはどうしようも無い。】 ←→ 私の言動によって、「相手の抱いている私の印象」は変わる。また、その人との距離を調整できる(例えば、私に嫌な印象を持っている人とは、こちらからは距離をつめない)
【それを気にしていれば自分で無くなる?】 ←→ 私の言動は制約されるが、私自身は何ら変わりない自分のままである(たとえ「自分で無くなる」ようにしようと思っても、それはできない。「自分は自分のままである」しかない)
【私は私。他人は他人。】 ←→ 私も他人も変わらない。その間の関係性をどのように作るかに、私は関心がある。「私に嫌な印象を持っている人」から遠ざかることもできるし、近づいて改善を試みることもできる。選択の余地はたくさんある。
【時々貴女の事を誤解していたわとおっしゃる方もある。逆に私がそう思う時もある。】 ←→ 互いに誤解だらけが、本当の姿。それに気づいていないだけ。誤解があるからうまくいくこともあり、誤解=悪 ではない。誤解を楽しむ余裕が欲しい。
こうしてみると、私は随分、疲れる生き方をしているのだなとも思った(笑)
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