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2020年12月19日土曜日

(2188)  ブルデュー『ディスタンクシオン』(3-2) / 100分de名著

 

◆ 最新投稿情報

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(K1329)  認知症だけど「自分らしく」 <認知症>

http://kagayakiken.blogspot.com/2020/12/k1329.html

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そもそも机に向かって勉強することができる、…という態度を持っていることが、学歴を得る場合には有利に働きます。すなわち、どんな態度やハビトゥスを持っているかが、露骨に資本として機能するわけです

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第3回  21日放送/ 23日再放送

  タイトル: 文化資本と階層

 

放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50

再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55

 及び        午後 00:00~00:25

 

 

【テキストの項目】

(1)  文化資本とは何か

(2)  美的性向と階級の相関関係

(3)  内容ではなく形式を受容する

 

(4)  文化的再生産論とは何か

(5)  学校は階級格差を正当化する?

(6)  はたして決定論か

 

【展開】

(1)  文化資本とは何か

(2)  美的性向と階級の相関関係

(3)  内容ではなく形式を受容する

 以上は、既に書きました。

 

(4)  文化的再生産論とは何か

 重要なのは、それが知的能力の問題ではないことです。机に向かうことがそれほど苦痛ではないような身体的技法と、机に向かうことが何の不思議もない当たり前のことであるとする感覚を持っているかどうかなのです。

 このように、出身階層に傾向づけられる性向が階層を再生産するという見方を、教育社会学では文化的再生産論といいます。『ディスタンクシオン』のメインテーマは必ずしも文化的再生産論ではないのですが、教育社会学ではその枠組みで読まれることがしばしばあります。

 

(5)  学校は階級格差を正当化する?

 近代的な社会において、初等教育と中等教育の多くは義務教育です。本来は階層に関係なく優秀な人を選抜することが目的であり、階層をシャッフルする機能が期待されていたはずです。しかしブルデューが指摘しているように、そこでおこなわれているのは選別と格差の維持にほかなりません。学校は優秀な人を効率よくビックアップするための装置ではなく、ただ親から受け継いだ文化資本を、そのまま自動的に親と同じように高い地位に押し上げるための装置だということになります。

 学校教育の現実を批判的に見る議論において、文化を「掛け金」と捉える『ディスタンクシオン』はよく参照される本なのです。

 

(6)  はたして決定論か

 ブルデューの仕事を全体として見ると、非常に強い決定論のようにも思われます。人は自分が生まれ育った社会階層によってハビトゥスを形成し、そのハビトゥスがまた自分をその社会階層にふさわしい人間に仕立て上げていくという、ある意味で希望のないモデルを描いているように思えるからです。

 しかし私(=解説者)は、ブルデューの主張は希望のない決定論ではないと考えています。なぜならば、ブルデューの理論はその過酷さを代償に、幻想を持たずに他者を知ること、幻想を持たずに自分を知ることを可能にしてくれるからです。

 

<出典>

岸政彦(2020/12)、ブルデュー『ディスタンクシオン』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)



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