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(K1320) 介護サービスを利用中の人が有償ボランティアとして“働く”(3) ~ 社会と接点を <高齢期の仕事>
http://kagayakiken.blogspot.com/2020/12/k1320-3.html
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ブルデューは、「芸術をめぐる闘争というのは、必ず同時にひとつの生き方を相手に押しつけうとするものである」と言っています。趣味は、生き方そのものが肯定されるか否定されるかの闘争である
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第2回 14日放送/ 16日再放送
タイトル: 趣味という闘争
【テキストの項目】
(1) 「界」とは何か
(2) 私たちの闘争
(3) 何よりもまず嫌悪なのだ
(4) 象徴闘争のアリーナとしての界
(5) 縦軸と横軸の構造
(6) 関係性のなかで生まれる意味
(7) 実存を賭けた闘争
(8) 界における相場感覚
(9) ハビトゥスからのズレがハビトゥスをつくる?
(10)異なる界の異なるポジション
【展開】
(1) 「界」とは何か
私たちは、この空間のなかで、お互いの資本やハビトゥスを「武器」として、何らかの「ゲーム」に参加しているのです。ブルデューは、私たちがゲームに参加しているこの空間のことを、「界」と呼びます。
芸術、学問、スポーツ、政治、文学のように、小さなものから大きなものまで、この社会にはたくさんの界があります。 … そこには独自のゲームがあり、独自の「賭け金」(ブルデューがよく使う言葉です)があり、独自の判定基準があります。
個人の側から見た場合の日常的実践を説明するための概念であるハビトゥスに次いで重要なのが、この界という概念です。第2回はこの界について説明します。
(2) 私たちの闘争
ブルデューによれば、数ある音楽のなかでも、たとえばグレン・グールドのピアノが良いと判断することは、必ず他者に対する差異化や卓越化(ディスタンクシオン)の動機が含まれます。ブルデューはこれを「象徴闘争」と名付けました。象徴をめぐる闘争ですから、勝ったからといってお金が儲かったり、実際に権力を得たりするわけではありません。シンボリックな利益を求めて闘争するのです。
つまり、人がなぜ好き嫌いの判断をするかと言えば、自分のハビトゥスの優位性の押し付けをやっているからである。それがブルデューの説明です。
(3) 何よりもまず嫌悪なのだ
バッハを好む人はチャイコフスキーを嫌うといったように、必ず否定がセットになるのです。「いや、私はバッハもチャイコフスキーも聴く」という人は、おそらく最新のポップスを聴かないのではないでしょうか。世界に存在するあらゆる音楽を、まったく同じ強度で好きになるという人は、ゼロではないでしょうが、かなりありえないことのように思えます。何かを「いいな」と思うことは、必ず他の何かを否定することでもあるのです。
ブルデューは言います。そして趣味とはおそらく、何よりもまず嫌悪なのだ。つまり他の趣味、他人の趣味にたいする、厭わしさや内臓的な耐えがたさの反応(「吐きそうだ」などといった反応)なのである。
(4) 象徴闘争のアリーナとしての界
ブルデューによれば、界とは、ある「賭け金」や「ルール」で構成された、相対的に自律的な場、あるいは社会的な空間のことを指します。たとえばジャズ界、社会学界、芸能界など、ある共通項でくくられる社会的な領域が当てはまります。人びとはそこで「賭け金」をめぐる闘争を繰り広げているとブルデューは考えました。ここで言う「賭け金」とは象徴的な利得であり、平たく言うと、他者からの評価や承認、あるいは権威のようなものかもしれません。
いずれにしても、ブルデューは界というものを、ただ趣味や規範やゲームを同じくする者たちが集まっているだけの、水平の広場のようなものではなく、象徴闘争のアリーナだと考えました。闘争であるからには、そこには勝ち負けが伴います。つまり界には垂直的な構造があり、その中で自分こそが卓越しようとみんなが闘っているというのです。
以降は、後日書きます。
(5) 縦軸と横軸の構造
(6) 関係性のなかで生まれる意味
(7) 実存を賭けた闘争
(8) 界における相場感覚
(9) ハビトゥスからのズレがハビトゥスをつくる?
(10)異なる界の異なるポジション
<出典>
岸政彦(2020/12)、ブルデュー『ディスタンクシオン』、100分de名著、NHKテキスト(NHK出版)
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