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2019年10月26日土曜日

(1768)  西田幾多郎『善の研究』(4-2) / 100分de名著

 
◆ 最新投稿情報
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(K0909)  穏やかに死ねない理由(患者側・医師側) / 平穏死(A-5)<臨死期>
http://kagayakiken.blogspot.com/2019/10/k0909-5.html
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☆☆
「思考」「思索」「思惟」という言葉があります。「思考」は、俗にいう「あたま」で行うものです。「思索」は「こころ」の営みです。しかし、「思惟」は「こころ」の奥にあるもの、世にいう「いのち」の営みです
☆☆
 
第4回  28日放送/ 30日再放送
  タイトル: 「生」と「死」を超えて
 
放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55
 及び        午後 00:00~00:25
 


【テキストの項目】

(1)   西田幾多郎に出会う三つの窓
(2)   随筆――恩師との交わり
(3)   西田の生きる態度
(4)   悲哀を感じ直す

(5)   短歌――詩と哲学のつながり
(6)   言葉にならないおもい
(7)   最終論文――真の「自己」に出会う
(8)   死を経ても「生きる」存在
 


【展開】

(1)  西田幾多郎に出会う三つの窓
(2)   随筆――恩師との交わり
(3)   西田の生きる態度
(4)   悲哀を感じ直す

 以上については、既に書きました。
 

(5)   短歌――詩と哲学のつながり
 俳句も短歌も真の目的は、言葉によって「真の生命」をとらえることにある。俳人、歌人がとらえようとしているのは「物」の「形」ではなく、「物」の「姿」にほかならない。五感が感覚する「形」は、いわば哲学の「概念」に似ている。それらを超えたところにある「姿」、すなわち「真の生命」に近づこうとしている。
 
(6)   言葉にならないおもい
 西田もまた、次のような短歌を残しています。
  妻も病み 子ら亦病みて 我宿は 夏草のみぞ 生ひ繁りぬる
  世をはなれ 人を忘れて 我は唯 己が心の 奥底にすむ
  人は人 吾は吾なり とにかくに 吾行く道を 吾は行くなり
 西田の短歌を読んでいると、彼の心のなかにあって、容易に言葉にならないおもいがありありと感じられます。
 
(7)   最終論文――真の「自己」に出会う
 西田が最晩年に書いた「場所的論理と宗教的世界観」は、まさに遺言といってもよい論文です。事実、この論文が発表されたのは、西田の没後です。
 ここで西田は、哲学とは「意識的自己」を超えた真の「自己」に出会うことだと述べています。私たちは同質のことを『善の研究』において、至高の「善」とはなにかを語る西田の言葉に見てきました。
 
(8)   死を経ても「生きる」存在
 人間には、生きて、小さな生命を開花させるだけではなくて、死を経て、大いなる生命に生きるという道がある。『善の研究』での「永遠の真生命」は根本問題の一つでした。ここでの西田は人間は死を経てもなお、「生きる」存在であると断言します。
 思考力を高めたければ「あたま」を鍛えればよいのでしょう。しかし思索を深めたければ「こころ」を動かさなければなりません。もし、「思惟」によって世界を感じたいなら「いのち」の地平に立ち、他者と己れが分かちがたい関係にあることに目覚めなければなりません。
 


<出典>
若松英輔(2019/10)、西田幾多郎『善の研究』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)

 

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