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(K0902) 私はロコモ? <体の健康>
http://kagayakiken.blogspot.com/2019/10/k0902.html
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「読む」と「書く」は、呼吸の関係。「読む」は吸う、「書く」は吐く。西田は、じつに深く「読み」、深く「書いた」。私たちも「書く」という行為を通じて、『善の研究』をより深く「読む」ことができるようになる
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第3回 21日放送/ 23日再放送
タイトル: 「純粋経験」と「実在」
放映は、 月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、 水曜日 午前 05:30~05:55
及び 午後 00:00~00:25
【テキストの項目】
(1) 西田哲学の「骨(コツ)」をつかむ
(2) 「実在」とは何か(3) ありのままの世界
(4) 「不可知」なもの
(5) 「純粋経験」とは何か
(6) 「メガネ」を外して世界を見る
(7) 日常の再発見
(8) 柳宗悦と「裸の眼」
(9) わたしの哲学
【展開】
(1) 西田哲学の「骨(コツ)」をつかむ
(2) 「実在」とは何か(3) ありのままの世界
(4) 「不可知」なもの
(5) 「純粋経験」とは何か
以上は、既に書きました。
(6) 「メガネ」を外して世界を見る
西田は「純粋経験」を妨げるものとして、①思想、②「思慮分別」、③「判断」の三つがあると述べています。別ないい方をすれば、この三つから自由になることが「純粋経験」の始まりだということになります。
私たちは日常、何重にも重ねられたさまざまな「メガネ」を通して眺めてしまいます。「メガネ」をしていることに気がつけばそれを外すこともできます。「純粋経験」とは、ある意味では「メガネ」を外して世界を見ることにほかなりません。
(7) 日常の再発見
人間は日々の生活で「知的直観」を深く経験し、体現している。しかし、そのことに私たちはあまり自覚的ではありません。問題は「知的直観」が働いていないことではなく、それを自覚できていないことなのです。
私たちは「実在」を外の世界ではなく内なる自分に見なければならない。日常で「純粋経験」を生きてみなくてはならないことになります。
(8) 柳宗悦と「裸の眼」
『善の研究』で述べられていることを芸術の現場で確認する。ここには大きな可能性があります。「民藝」を提唱した柳宗悦はその先駆けとなった人物です。
「思想」から離れた「裸の眼」で、好き嫌いとは別なところで、日々、新たに世界と向き合う。そこに「美」が姿を顕わす、と柳はいうのです。ここで述べられているのは、西田が説く「純粋経験」そのものです。
(9) わたしの哲学
『善の研究』の書名は、最初は「純粋経験と実在」でした。西田にとっては「実在」あるいは「純粋経験」とは何かを「考究」することが、この本における中核的問題でした。「考究」とは「考える」ことを究めることです。あるいは存在の究極点に向かって考えを展開することです。しかし、「考究」という営みは、非常に困難なものです。
そこで提案したいのは、西田が『善の研究』を書くことによって「わたしの哲学」を発見しようとしたように、読者である私たちもそれぞれの「わたしの哲学」を書く、すなわち「論究する」ことなのです。西田のように「考究」する前に「論究」してみる。すなわち、私たちも自分の問題を「論じる」ことを通じて、西田が究めようとした「考究」に近づくことができると思うのです。
西田がそうしたように、自分の切実な経験、切なるおもいを言葉にしてみる。この素朴な「書く」という行為こそが「読む」ことを深めていくのです。
<出典>
若松英輔(2019/10)、西田幾多郎『善の研究』、100分de名著、NHKテキスト(NHK出版)
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