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(K0874) 個人Blog 9月中旬リスト <サイト紹介>
http://kagayakiken.blogspot.com/2019/09/k0874-blog.html
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第4回 23日放送/ 25日再放送
タイトル: 一滴の水が地面にしみとおるように
放映は、 月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、 水曜日 午前 05:30~05:55
及び 午後 00:00~00:25
【テキストの項目】
(1) 総領事の死と、薔薇の香りの奇蹟
(2) ドストエフスキーとの響き合い(3) サッチャンの出奔とアウグスチヌス
(4) 文学テクストが将来を予言する
(5) ギー兄さんの受難
(6) 反復のなかで変化する意味
(7) 予行演習としての行進
(8) 「人間」は続いている
(9) すべては揺れ動く
【展開】
(1) 総領事の死と、薔薇の香りの奇蹟
(2) ドストエフスキーとの響き合い(3) サッチャンの出奔とアウグスチヌス
(4) 文学テクストが将来を予言する
(5) ギー兄さんの受難
以上は、既に書きました。
(6) 反復のなかで変化する意味
「自分が三人組に襲撃を受けて傷を負わされたように、かつて学生運動の一党派に属していたギー兄さん自身も三人組の一人として襲撃隊に加わったことがある」とサッチャンに言います。大江文学の特徴に、反復の主題があるとしたら、ここにもそれが見て取れます。襲撃ということが二度繰り返されています。しかしその意味は変化しています。
(7) 予行演習としての行進
教会はいずれ行うべき「世界伝道の行進」のための予行演習として大がかりな行進を組織しました。すると「行進参加者全員の集中が行われた、ちょうどその時刻に、阿川一号機と二号機でまったく同時に事故が起こる」という奇蹟が起こりました。
今後の教会の進み行きについては、二つの極に分かれました。①教会という本拠をより堅個に組織化。②「森のなかの教会」という本拠をベースとしての伝道の旅。しかし、ギー兄さんは「その本拠という考え方は、まちがっているのじゃないだろうか?」と疑問を呈します。
「農場を拡大し礼拝堂を建設とたことはあやまちでした。本当に魂のことをしようとねがう者は、水の流れに加わるよりも、一滴の水が地面にしみとおるように、それぞれ自分ひとりの場所で、「救い主」と繋がるよう祈るべきなのだ」。
(8) 「人間」は続いている
大江は子供のころ森で迷子になり、数日後倒れているところを発見されます。「お母さん、僕は死ぬのだろうか?」と尋ねると、母はこう答えます。
―― もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫。
この母の言葉について、子供たちに向けた講演のなかで作者はこう言います。
私の母がいったのは、「あなたは死んだ子供のかわりに生きているんだ」ということでした。それは何を私に教えたかったのかというと、「人間」は続いているということです。
ギー兄さんは、大檜の枯れ枝に火をつけるようサッチャンに提案します。それに答えてサッチャンが問います。 ――「燃えあがる緑の木」を、実際に演出したいの?
文字どおり燃えあがる緑の木となって大檜は燃えさかります。周囲は大騒ぎになります。教会の「しるし」であった「燃えあがる緑の木」は、このようにして現実のものになります。しかしそれは同時に、その木が消失するということです。
ギー兄さんは迎えに来た車にのって、巡礼団に加わるべく、「屋敷」をあとにします。彼は、<さきの>ギー兄さんを襲った受難を反復することなく無事に、<魂のこと>に<集中>する旅に出発できることになるのでしょうか…。
(9) すべては揺れ動く
この長大な小説を読み終わったあと、読者が浸されるのは、それこそ両義的な感情です。僕たち自身が「燃えあがる木」になったかのように、僕たちはこの小説の結末がもたらす二つの感情――希望と絶望――のあいだで揺れ動くことになるのでしょう。しかし、それでいいのです。
なぜなら大江自身の魂もまた、僕ら以上に揺れ動いているからです。
<出典>
小野正嗣(2019/9)、大江健三郎『燃えあがる緑の木』、100分de名著、NHKテキスト(NHK出版)
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