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2019年9月21日土曜日

(1733)  大江健三郎『燃えあがる緑の木』(4-2) / 100分de名著

 
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第4回  23日放送/ 25日再放送

  タイトル: 一滴の水が地面にしみとおるように
 
放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55
 及び        午後 00:00~00:25
 


【テキストの項目】

(1)   総領事の死と、薔薇の香りの奇蹟
(2)   ドストエフスキーとの響き合い
(3)   サッチャンの出奔とアウグスチヌス
(4)   文学テクストが将来を予言する
(5)   ギー兄さんの受難
 
(6)   反復のなかで変化する意味
(7)   予行演習としての行進
(8)  「人間」は続いている
(9)   すべては揺れ動く
 


【展開】

(1)  総領事の死と、薔薇の香りの奇蹟
(2)   ドストエフスキーとの響き合い
(3)   サッチャンの出奔とアウグスチヌス
(4)   文学テクストが将来を予言する
(5)   ギー兄さんの受難
 以上は、既に書きました。
 


(6)   反復のなかで変化する意味
 「自分が三人組に襲撃を受けて傷を負わされたように、かつて学生運動の一党派に属していたギー兄さん自身も三人組の一人として襲撃隊に加わったことがある」とサッチャンに言います。
 大江文学の特徴に、反復の主題があるとしたら、ここにもそれが見て取れます。襲撃ということが二度繰り返されています。しかしその意味は変化しています。
 
(7)   予行演習としての行進
 教会はいずれ行うべき「世界伝道の行進」のための予行演習として大がかりな行進を組織しました。すると「行進参加者全員の集中が行われた、ちょうどその時刻に、阿川一号機と二号機でまったく同時に事故が起こる」という奇蹟が起こりました。
 今後の教会の進み行きについては、二つの極に分かれました。①教会という本拠をより堅個に組織化。②「森のなかの教会」という本拠をベースとしての伝道の旅。しかし、ギー兄さんは「その本拠という考え方は、まちがっているのじゃないだろうか?」と疑問を呈します。
 「農場を拡大し礼拝堂を建設とたことはあやまちでした。本当に魂のことをしようとねがう者は、水の流れに加わるよりも、一滴の水が地面にしみとおるように、それぞれ自分ひとりの場所で、「救い主」と繋がるよう祈るべきなのだ」。


 
(8)  「人間」は続いている
 大江は子供のころ森で迷子になり、数日後倒れているところを発見されます。「お母さん、僕は死ぬのだろうか?」と尋ねると、母はこう答えます。
 ―― もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫。
 この母の言葉について、子供たちに向けた講演のなかで作者はこう言います。
 私の母がいったのは、「あなたは死んだ子供のかわりに生きているんだ」ということでした。それは何を私に教えたかったのかというと、「人間」は続いているということです。

 ギー兄さんは、大檜の枯れ枝に火をつけるようサッチャンに提案します。それに答えてサッチャンが問います。 ――「燃えあがる緑の木」を、実際に演出したいの?
 文字どおり燃えあがる緑の木となって大檜は燃えさかります。周囲は大騒ぎになります。教会の「しるし」であった「燃えあがる緑の木」は、このようにして現実のものになります。しかしそれは同時に、その木が消失するということです。

 ギー兄さんは迎えに来た車にのって、巡礼団に加わるべく、「屋敷」をあとにします。彼は、<さきの>ギー兄さんを襲った受難を反復することなく無事に、<魂のこと><集中>する旅に出発できることになるのでしょうか…。

(9)   すべては揺れ動く


 この長大な小説を読み終わったあと、読者が浸されるのは、それこそ両義的な感情です。僕たち自身が「燃えあがる木」になったかのように、僕たちはこの小説の結末がもたらす二つの感情――希望と絶望――のあいだで揺れ動くことになるのでしょう。しかし、それでいいのです。
 なぜなら大江自身の魂もまた、僕ら以上に揺れ動いているからです。
 


<出典>
小野正嗣(2019/9)、大江健三郎『燃えあがる緑の木』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)

 

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