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2018年6月15日金曜日

(1270) 「今の自分を引き受ける」「人間における楽観主義」 / アルベール・カミュ『ペスト』(3-1) / 100分de名著

 
      最新投稿情報
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(K0411)  中高年の男性 孤独の危機 / 頼れる人が周りにいますか <社会的健康>
http://kagayakiken.blogspot.com/2018/06/k0411.html
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2018/06 第3回  18日放送/ 20日再放送
  タイトル:それぞれの闘い
 

【今回の目次】

(1)  いまの自分を引き受ける――ランベールの決意
(2)  無垢な子供の死
(3)  こんな世界を愛せるか?――パヌルー神父の変化
(4)  タルーの告白――偏在する「ペスト」の正体
 

【展開】 今回の投稿は、(1)(2)
 
(1)  いまの自分を引き受ける――ランベールの決意

 新聞記者ランベールは保健隊に参加し、医師リウーのかたわらで、骨身を惜しまず懸命に働いていた。その一方で、恋人に会うために町を脱出する手はずを整えた。まさに町を出ていく直前になって、ランベールはリウーに「僕は行きません。あなたたちと一緒に残ります」と告げた。
 
 もともと他人ごとの事件として、このペスト騒ぎをたまたま取材に来ただけの記者ランベールにとって、この町は本来自分とはなんの関係もなかったわけだが、その場で自分にできることをおこない、人々と関わりあっていくうちに、そこから同じ状況を共有する者同士という連帯感が生まれてきた。
 
===== 引用はじめ
 天災や戦争といった事件が起こったときに、それに対してごく当たり前のリアクションを起こすことから、もっと積極的な連帯が生まれてくる可能性が、物語の自然な流れのなかで示されています。
===== 引用おわり
 
===== 引用はじめ
 引用したランベールのセリフは、カミュにとっても『ペスト』の次の作品『反抗的人間』における「連帯」のテーマを予告するものだといえるでしょう。
 これまでに出てきた「自分にできることをする」とか「自分の仕事を果たす」といった表現と同じように、「今の自分をひき受ける」ことが、連帯の前提として重要になってくるのです。
===== 引用おわり
 
 


(2)  無垢な子供の死
 
 次のドラマティックな山場は、一人の少年の死である。十月の下旬、予備判事であるオトン氏の息子がペストにかかる。そして、家族から隔離された少年は、絶望的な病状を呈していた。 … ところがこの血清の注射は、その効果により結果的にオトン少年の死をひき延ばし、少年の苦しみを長引かせてしまう。 …痙攣してもがき苦しむオトン少年…

 あまりに悲惨で残酷な描写ですが、罪なき子供の不条理との戦いを描くことで、「神なき世界」を観念ではなく、具体的な現実として文章で示す。…

 無垢な子供の残酷な死というテーマは、じつはカミュにとって一種のオブセッション(強迫観念)のように作用している。
 
 
 「神ある世界」のキリスト教徒に対極する「神なき世界」のカミュは、「人間については楽観主義者」である(添付の表参照)。

 
A. 「神ある世界」において、キリスト教徒は、「人間については悲観主義者」(*1)だが、「人間の運命については楽観主義者」(*2)である。
(*1) 人間ははじめから原罪を刻印された悪いものだと捉えている
(*2) 来世では天国で救われますよ、と楽観している
 
B. 「神なき世界」において、カミュは、「人間の運命については悲観主義者」(*3)だが、「人間については楽観主義者」(*4)である。
(*3) 死んでしまったら来世はない。「子どもたちが苦しんで死んでゆく」ことは、この世界の悲惨の、究極のイメージなのです
(*4) 人間は初めから罪を背負って生まれてくるものではないし、はじめから悪をなすために存在しているのではない。つねに不足なものに思われる人間主義の名においてではなく、何物をも否定しないようにしようとするところの無知の名においてなのです
 
 「神なき世界」において「人間の運命については悲観主義者」カミュは、この世界の悲惨の、究極のイメージ「子どもたちが苦しんで死んでゆく」姿を描いた。

 
 
 では、カミュは、どのようにして「人間については楽観主義者」になりえるのだろうか。
(ア)つねに不足なものに思われる人間主義の名においてではなく、
(イ)何物をも否定しないようにしようとするところの無知の名においてなのです
 

(ア)つねに不足なものに思われる人間主義の名においてではなく、
 「人間同士助け合いましょう」などというだけではだめだ。ヒューマニズムもまた、「人間とはこういうものだ」とはじめから人間を決めつけ、分かったつもりになっているからである。
 
(イ)何物をも否定しないようにしようとするところの無知の名においてなのです
 「自分は何も知らない」という認識をもって、自分の判断を過信せず、善いことと悪いことをあらかじめ決めずに、「何物をも否定しない」ことから出発すべきだということなのです。ここでの「無知」は、ソクラテスがいうところの「無知」です。
 

===== 引用はじめ
 「われわれはおそらく、この世界が子供たちの苦しめられる世界であることを妨げることはできません。しかし、われわれは、苦しめられる子供の数を減らすことはできます」
 そうして見極めた悪を前にして、それでもなお、人間的な努力によって悲惨な世界を改善してゆくことはできるはずだと語り、そんな人間の戦いをカミュは肯定するのです。
===== 引用おわり
 


<出典>
中条省平(2018/6)、アルベール・カミュ『ペスト』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)
添付写真:1945年のカミュ。双子の子どもを抱くカミュと妻フランシーヌ


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