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(K0410) 非正規格差訴訟 <高齢期の家庭経済>
http://kagayakiken.blogspot.com/2018/06/k0410.html
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こういうことで面白がるのは、はなはだ不謹慎だが、はなはだ面白い。
米国は、CVID(完全かつ検証可能で不可欠的な非核化)は譲らないと言っていたのに、共同宣言では盛り込まれていなかった。なんじゃこれは?と思っていたら、アメリカは、共同声明の「完全非核化」の中に含まれていると言い出した。当然、北朝鮮は含まれないと言う。つまり「完全非核化」を定義せずあいまいなまま、二通りに解釈できるまま共同宣言を出したことになる。そんないいかげん(おざなり。無責任)な共同宣言では意味がない、というのが常識だろう。
では、「共同宣言は意味がない」というのは、どういう意味だろうか?
もしも、言葉をちゃんと定義し、CVIDを共同宣言でどうとりあつかうかを「常識的」に議論していたら、そもそもこの会議が成立しなかっただろうということは「常識的」にわかることだ。
この会議を実現させることを最優先するなら、この「いいかげんな共同宣言」は意味がある。いいかげんだからこそ、先に進んだ。
当然、次は、「お前の解釈は違う」と非難しあう局面になる。世間は「そんないいかげんな共同宣言をしたからこうなった」としたり顔で批判するだろうが、でも「ちゃんとした共同宣言」など存在しえない。なぜなら、それにこだわっていたら、会談そのものが成立しなかっただろう。いかなる共同宣言も存在しえないことになる。
要は、難しい問題を先送りしたのである。先送りするのは良くないと言われるだろうが、先送りする方が良いこともある。
前回、「物事を解決するには、戦争か対話しかない。対話するには、対話を始めなければならない」と書いた。難しい問題は先送りしたが、とにもかくにも対話を始めた。
「同邦人」がとりかわす共同宣言<A>は,言葉をしっかり定義し、出した共同宣言の理解は一致する。しかし、「異邦人」がとりかわす共同宣言<B>は、言葉をしっかり定義せず、出した共同宣言の理解は一致しない。
今回のは、共同宣言<B>である。これを共同宣言<A>の視点から見るから、おかしくなってしまう。
「米朝首脳会談が終わった」のではない。「米朝首脳会談が始まった」のである。同じテーブルに座った後、また大ゲンカする。そして落としどころを探る。
もしも大ゲンカしなかったら、そこで「トランプ大統領は失敗した」と言えるだろう。終わったことは終わったこと、それをいくら批評しても意味がない。終わったこと(出された共同宣言)をスタートとして、戦争ではなく対話で、見かけではなく本物の平和を実現すべく、全ては、これから始まる。
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