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2016年6月30日木曜日

(554) 信仰心と「心を支える希望」


 前回・前々回を書いていて、気にかかる言葉「信仰」が残った。

 
===== 引用はじめ P.129P.130

 … この支え(*) は、二つのものにありました。つまりそれは将来にあるか、永遠にあるかでした。後者は、ほんとうに宗教的なすべての人たちの場合でした。この人たちは、将来を支えにする必要もありませんでした。…

 それに対して、ほかの人たちは、将来の生活を支えにすることになりました。

===== 引用おわり
(*) 心の支え

 

3項目について考察する。

【1.  有信仰か・無信仰か ではない】

【2.  信仰の中身が違う】

【3.  最後に信仰に至ることもある】

 
 
***** 各論 *****
 
 
【1.  有信仰か・無信仰か ではない】

 これまで私は、「信仰がある」「信仰がない」を指標として論を進めた。しかし、これは正しかったのか。第一に気がかりになった点である。

 
 欧米では、キリスト教徒であるか否か、イスラム教徒であるか否か、あるいは信仰があるか否か、だいたいははっきりしている。

 日本では、熱心なキリスト教徒や仏教徒はいるが、大多数はそうではないだろう。では、その人たちが無信仰かというと、そうとは言いきれず、一神教とは異なるある種の信仰心をもっている(これについては後で述べる)と私は考えている。その強弱は、さまざまである。

 
 つまり、欧米では「信仰のある人は…、信仰のない人は…」と論を進めるのが良いが、日本では違うのではないか。「信仰心の強さが中程度の人を対象として、単に…ですと一度言い切る。そのうえで、信仰心の強い人は…という傾向があり、信仰心の弱い人は…という傾向がある、と一部修正記述をする」のがよいと思う。「信仰のある人は…、信仰のない人は…」と書くと、いずれも対象となる人は少なく、多くの人がどちらでもないので、どうすればよいかわからなくなってしまう。

 

【2.  信仰の中身が違う】

 一神教の欧米が日本人を見ると、信仰心がないように見えると思うが、それは信仰心のない欧米人と違う。

 
 「一神教の信仰のある欧米人」が示す徳目を、「一神教の信仰のない欧米人」は示さないが、「一神教の信仰のない日本人」は示す。

「キリスト教の7つの枢要徳を、英語で書いてください」という問に対する回答
を利用して説明する。
 
回答は、
Justice:正義、審判
Love:
Hope:希望、頼り
Prudence:思慮、賢明
Temperance:節制、自制
Fortitude:忍耐、精悍
Faith:信頼、信仰

「一神教の信仰のない日本人」で、この徳目を示す人が多くいる。「一神教でない信仰心」を、日本人がもっていると言ってよいのではないか。

 
 絶望的な局面とは、人の力ではいかんともできない場面であり、対抗するためには人を超えた何者かの関与を必要とする。「人を超えた何者か」は、欧米人にとっては神であり、日本人にとっては「自分を包み込み一体化する存在」ではないか。欧米人は神と契約し、日本人は「自分を包み込み一体化する存在」と共にある。形態は違うが、どちらも「信仰心」と呼んでよいのではないか。

 

【3.  最後に信仰に至ることもある】

 ホスピス(*1) に入所した人が、チャプレン(*2)(神父・牧師など)の話を聞き、人生の最期に洗礼を受けて安らかに亡くなる方も多いと聞く。ビハーラなら、仏教に帰依することもあるだろう。

(*1) ホスピス<デジタル大辞泉>: 末期癌(がん)患者など死期の近い病人を対象に、延命処置を行わず、身体的苦痛を和らげ、精神的援助をして生を全うできるように医療を行う施設
(*2) チャプレン<デジタル大辞泉>:学校・病院・軍隊など、教会以外の施設や組織で活動する聖職者
(*3) ビハーラ<wikipedia>:ビハーラ(vihāra)は、サンスクリット語で僧院、寺院あるいは安住・休養の場所を意味し、現代では末期患者に対する仏教ホスピス、または苦痛緩和と癒しの支援活動を差す。

 
 「信仰を得る能力」と言うものがあるなら、それは健康な時より病める時に高まり、平穏な時より苦難の時に高まる。人生の最期の時を過ごすに当たって、「日本人的な信仰心」にこだわることなく、キリスト教や仏教などの信仰心に移ることも選択肢に入るだろう。

 

 (532)(533)では、フランクルの枠組みを継承しながら「心を支える希望」について考察してきた。しかし、日本人に当てはめとき、日本人の信仰の特性を大切にするなら、また、違った展開になる。

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