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2020年12月9日水曜日

(2177)  本田宗一郎とオートバイ・自動車 ~ 車の修理屋から大自動車メーカーを育てた男 / あの頃日本人は輝いていた(19)

 

◆ 最新投稿情報

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(K1318)  介護サービスを利用中の人が有償ボランティアとして働く <高齢期の仕事>

http://kagayakiken.blogspot.com/2020/12/k1318.html

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はじめは子守ばかりやらされたが、子守をしながら店にあった自動車関係の本を読みあさり、おんぶした赤ちゃんがおしっこをしても気が付かないほど夢中で知識を吸収した。アート商会の主人も目をかけるようになった

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(1)  本田宗一郎の生い立ち

(2)  新会社設立とピストンリングの生産、そして戦争を経て

(3)  オートバイから自動車へ

(4)  低公害のCVCCエンジンの開発とホンダイズム

 

<展開>

(1)  本田宗一郎の生い立ち

 「君たちは、この会社を変えなきやいけないんだ。この会社の通りやっていたらいけないんだ」

 本田宗一郎は毎年入社式の際、新入社員に向かってこの決まったフレーズを入れてスピーチした。この短い言葉には、現状に満足しない、何事にもチャレンジするホンダの精神が凝縮されている。

 本田宗一郎は日露戦争が終わった翌年の明治39(1906)静岡県磐田郡、現在の浜松市天竜区の鍛冶屋の長男に生まれた。祖父が「この子は必ず多くの人の上に立つ人間になる。尊敬される人間、宗匠だ」と「宗」と長男を意味する一郎を組み合わせて宗一郎と命名した。

 やがて鍛冶屋から自転車屋に転業した父、そこに送られてくる雑誌『輪業の世界』を宗一郎は貪るように読み、店を手伝う間に自転車修理の腕を上げていった。この雑誌にアート商会の求人広告がのった。東京の自動車修理工場で修行できる。宗一郎は渋る父を説き伏せ、遂に上京することになった。

 徴兵検査で色覚障害の疑いで兵役に適さずの丙種となったため、徴兵されず、6年間アート商会で働いた。その仕事ぶりから榊原社長の信頼も篤く、多くの従業員のなかでたった一人暖簾分けを許され、地元に戻ってアート商会浜松支店の看板を掲げたのは昭和2(1928)4月のことであった。

 

(2)  新会社設立とピストンリングの生産、そして戦争を経て

 故郷でオープンしたアート商会浜松支店、小僧ひとり雇つての小さな店だったが、「あそこへいけば自動車でもオートバイでもすぐに直してくれる」と評判になり、バスやタクシーなど業務用車両まで扱って業績を拡大、三年後には工員50名が働く大修理工場にまで発展した。

 やがて本田は新会社、東海精機重工業株式会社を設立し、車のエンジンの一部ピストンリングの製造に専念するようになった。

 戦争が終わって40歳になった本田は戦後の混乱のなか、本田技術研究所を設立した。 … 

焼けたり、こわれたエンジンを買い集めて活用した。翌年には超小型エンジンを開発、自転車に取り付けた通称「ポンポン」、あるいは「バタバタ」は飛ぶように売れた。

 同様のポンポン屋が次々登場すると、本田技研工業を設立し、本格的なオートバイづくりを決意する。 … 本田は絶対の自信をもって夢を乗せ「ドリーム号」と命名、試作オートバイを世に出した。

 

(3)  オートバイから自動車へ

 ドリーム号で業績を伸ばした本田技研は本社を浜松から東京に移した。世界一のオートバイメーカーを目指す。その目的達成の手段として、モーター・サイクルのオリンピツクといわれるイギリス、マン島のTTレースに参加し、優勝すると宣言したのだ。 … 二年後の1961年、遂にTTレースの2クラスで完全優勝を果たす。

 世界を制覇したオートバイから本格的な乗用車に挑戦するのは必然の流れであった。 … ホンダは軽トラックT360、小型スポーツカーでます四輪車市場に参入し、世界グランプリレースG1部門への出場を決めた。スピード、耐久力、安全性を国際舞台で示し、日本人の間にホンダの名を知らせようとしたのだ。実績に基づく技術を基礎にしてN360という軽自動車を低価格で提供し、1年ヵ月で20万台を突破する売れ行きを記録するヒットを飛ばした。

 

(4)  低公害のCVCCエンジンの開発とホンダイズム

 CVCCエンジンは、本田宗一郎の発想から生まれた。60年代の四輪メーカーのエンジンは欧米的な設計、製造で作られていたが、ホンダはバイクのアイデイアを活かし小型、軽量、高効率を追求し、実現、世界の低公害エンジンの原型を作り上げたのであった。

 研究開発から量産化を通じて経営に哲学が生まれた。三つの喜び――「作る喜び、売る喜び、買う喜び」である。作る喜びはいい製品を生み出す技術者に与えられる喜び、質が良く安価な製品は大衆に迎えられよく売れて利益につながる、売る喜びだ。そして「この車を買って良かった」と思ってもらう、買う喜びである。この方針を貫き、世界のオートバイ産業、自動車産業に革新をもたらしたのだった。

 

<本田宗一郎(19061991)

本田技研工業の創業者。

 静岡県で生まれ、高等小学校卒業後、自動車修理工場で技術を習得。東京で修業した後、22歳で浜松に自分の店を持ち独立。1946年に本田技術研究所、1948年に本田技研工業を創立し本格的なオートバイづくりをおこなう。1963年に自動車製造に進出。F1など国際レースなどにも参加し「ホンダ」の名を世界に知らしめた。

 

<出典>

池井優、『あの頃日本人は輝いていた』(芙蓉書房出版)

 

写真は、

「第32回:本田宗一郎 技術一筋で身を立てた男の夢と美学」

https://www.webcg.net/articles/-/39439



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