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2019年2月17日日曜日

(1514)  オルテガ「大衆の反逆」(3-2) / 100分de名著

 
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(K0655)  居住支援法人制度(4) 支援業務(2) <地域の再構築>
http://kagayakiken.blogspot.com/2019/02/k0655-42.html
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第3回  18日放送/ 20日再放送

  タイトル:死者の民主主義
 


放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55
 及び        午後 00:00~00:25
 


【テキストの項目】

(1)   「生きている死者」の存在
(2)   過去を無視するということ
(3)   人は後ろ向きに未来へ入っていく
(4)  「ご先祖になる」 ―― 柳田国男『先祖の話』
(5)   東日本大震災と「死者の問題」
(6)   死者と出会い直し、一緒に生きていく
 
(7)   立憲民主主義の主体は「死者」である
(8)   過去と向き合わない進歩は無意味である
(9)  「平凡であること」の非凡 ―― チェスタトン『正統とは何か』
(10)「遺影」の存在 ―― 死者からのまなざし
(11) 制約のなかに本質がある
(12) 背筋を伸ばして遠くから物事を眺める
 


【展開】

(1)  「生きている死者」の存在
(2)   過去を無視するということ
(3)   人は後ろ向きに未来へ入っていく
(4)  「ご先祖になる」 ―― 柳田国男『先祖の話』
(5)   東日本大震災と「死者の問題」
(6)   死者と出会い直し、一緒に生きていく
以上は、既に書きました。
 

(7)   立憲民主主義の主体は「死者」である

 民主主義とは最終的に多数派によって決定されるという政治システム。一方、立憲主義とは、憲法が権力を縛る、つまり「多数派の支持を得たからといっても、してはいけないことがある」という考え方です。法学上、あるいは政治学上も、この二つは相反するというのが基本的な考え方です。
 民主主義の主体はいま生きている人間、つまり「生者」。それに対して、立憲主義の主体は「死者」なのです。憲法を通じて、死者が私たちをガードし続けている。それが立憲主義というものなのです。
 

(8)   過去と向き合わない進歩は無意味である

 「歴史を知る」と言うと、しばしば趣味的なものとして扱われがちですが、そういうことではありません。生きた死者たちからさまざまなことを学び、その経験を活用しながら何かをともに進めていく、そのために必要なのが「歴史を知る」ことなのです。
 さらに、過去と向き合わず、未来だけを見ている進歩は無意味だともオルテガは言っています。
 

(9)  「平凡であること」の非凡 ―― チェスタトン『正統とは何か』

 平凡なことは非凡なことよりも価値がある。いや、平凡なことのほうが非凡なことよりもよほど非凡なのである(G・K、チェスタトン著、福田恆存・安西徹雄訳『正統とは何か』)。
 非凡なるものとは何かと言えば、それは「平凡であること」を淡々と行えることだという。
 

(10)「遺影」の存在 ―― 死者からのまなざし

 オルテガは「ヨーロッパ人は孤独である」と言っています。世の中には人があふれているのに、なぜ孤独かと言えば、「死者が隣にいない」からだと。その「死者の不在」が、民主制に大きな影響を与えているのではないか。
 

(11) 制約のなかに本質がある

 オルテガの思想の一つとして、「制約の中に本質がある」という考え方があります。
 オルテガは、「私は、私と私の環境である」と言いました。「私」を成立させている一部であるはずの環境、つまりは制約を忘れて、何にも縛られない存在だと言い張っているのが現代人であり、それは大変危険なことだと、オルテガは考えているのです。
 

(12) 背筋を伸ばして遠くから物事を眺める

 オルテガは時代を遠くから見ることが大事だと言っています(「遠近法的思考法」)。
 囲碁を習っていていると「背筋を伸ばして」言われます。碁を打っていて局所的な攻め合いになると、どうしても体が前屈みになり、攻め合っている部分ばかりを見てしまうものです。
 


<出典>
中島岳志(2019/2)、オルテガ「大衆の反逆」、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)


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