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2017年4月27日木曜日

(856) 挫折体験、私の場合(自己分析)


大分前(4/17)になるが、(846)Ayako Ueda さんから「藤波さんが挫折?ないない止まってしまう?ないないどれも足りてます」というコメントをいただいた。

 
私はそのように見えているようだ。
順風満帆で、苦労知らずで、平和な雰囲気に見えているのだろう

 

ところで私は、本当に「挫折ない」のだろうか。

 
「すごく悲惨な体験」は、私はしていないと思う。それでも、
もしも別の人が私の人生をたどったら、「いっぱい挫折があった」と言うだろう。
客観的に言えば、私は「挫折だらけ」だと思う。

しかし、

主観的には「挫折感」はあまりない。

何故だろうか? 考えて見た。

 多分、価値観だと思う。

 
一つ目に、私は、出世とか名誉とか名声とか金持ちとかに憧れておらず、あまり気にしていない。だから、それらが得られなかったといって、そう気落ちはしない。

 
二つ目に、たえず複数の価値観と複数の目標を持っている。

「挫折」したのは、一部の価値観に関してであり、一部の目標に対してである。私の全てに関わることはではない。だから、「挫折」したといってもほんの一部で、それを気にするより、失っていないところに気が回る。「挫折し」たころは、とりあえずそのまま放っておいて、別の価値観・目標に注力する。

ただ、捨ててしまったのではない。落ち着いたら、また舞い戻る。

失敗は、成功への道筋の一つの過程だと思う。一つ失敗したということは、一つ成功に近づいたということだ。

しかし、見込みのなさそうなものは方向転換する。方向転換する前のものは捨てる。捨てるものは捨てないと、先に進めない。そして、方向転換できたのも立派な成果であり、それは失敗のおかげだと思う。

方向転換し続けた結果、多分、最初のものが跡形なく消えているものもあるだろう。「だろう」といのは、覚えていないからである。私の関心は未来に向かっており、関心の薄い過去は忘れ去られる。考えなければいけないことが多いので、過去を覚えておくために脳みそを使う余裕がないのだろう。断続的ではあるが継続しているので、「最初のものがうまくできなかった」という感覚はない。

嫌だったことはどんどん忘れている。その場で何故悪かったのか、今後はどうすべきだろうか、などと考え、それを抽象化・一般化し、出来事そのものは忘れてしまう。

このようにして私には「失敗に終わった」ということは、少ないのだろう。

 
三つ目は、「今回はたまたまうまく行かなかったけれど、結構頑張ったよね」と思えた時は、うまくいかなくても、私は割り切ることができる。「結構頑張ったよね」と自分に言えないと苦しくなるので、それを避けるため、結構頑張っていると思う。

 

なお、止まってしまうことは少ない。
「止めてしまわないようにするしつこさ」があると思う。
本当に良いものは、そのしつこさの後ろにあると知っているからである。

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