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2017年4月30日日曜日

(859) 動乱の時代を生き抜く知恵 / 陳寿『三国志』(1)


~ 『100分で名著』 51() 22:25 – 22:50 Eテレ 放映 ~

===== 引用はじめ

  およそ四百年続いた漢帝国は、外様と宦官の勢力争いで政治的混乱に陥っていた。1842月、宗教結社・太平道の張角が漢帝国打倒を掲げて立ち上がると、税負担の増大や度重なる飢饉によって朝廷への不満を募らせていた民衆に支持され、一ヶ月足らずで首都・洛陽の間近に迫る(黄巾の乱)

  朝廷は外戚の何進を大将軍に任じて反撃に転じ、同年末までに反乱を鎮圧したが、黄巾の残存勢力は各地でくすぶり続けた

  189年に霊帝が没した際、後継者をめぐって外戚と宦官の対立はさらに激化

  強引に少帝を即位させた何進は、危機感を抱いた宦官勢力に宮中で殺害されてしまう

  何進に召集されていた袁紹・袁術らは報復のために宮中に攻め入り、宦官二千人余りを虐殺した

  この混乱のなか、洛陽郊外に逃れていた少帝を保護し、いち早く入京した董卓は、少帝を排し、献帝を擁立して独裁体制を築く

  董卓の専横に反発した関東(函谷関から東)の諸将は、190年、袁紹を盟主として反董卓連合軍を形成し結束するが、董卓誅殺を果たす前から分裂を始めた

  諸将のなかから、袁術を制して第一人者に躍り出たのは袁紹であった

  群雄割拠の時代が始まる――

===== 引用おわり

 

小見出しを一通り洗い出すと次のようになる(番号をふった)

(1)  正史『三国志』誕生の背景

(2)  陳寿の隠された意志

(3)  漢崩壊への道程

(4)  黄巾の乱

(5)  董卓の専制

(6)  名士社会

(7)  随一の名門袁氏

(8)  「二袁の盛衰」

 
私が関心を持ったのは、「(6)名士社会」である。「名士」とは、儒教的な価値観に基づく名声をその存在基盤とする人々の総称である。

儒教的価値観は当時、社会を安定させるものとして少なからぬ影響力を獲得していた。政治、地域社会を、軍事力や経済力だけでは安定させられない。

董卓・袁紹も、曹操・孫権・劉備も、その他の人たちも、名士の協力を得られたか得られなかったが大きな影響力があった。そういう事例がたくさん出てくる。

 
名士が活躍できる社会、そして名士として活躍する人々に、私は憧れを抱いている。

 

出典:
渡邉義浩(2017/5)、 陳寿『三国志』~真の「英雄」とは何か~、「100DEで名著」、NHKテキスト
地図:【192年頃】

2017年4月29日土曜日

(858) はじめに / 陳寿『三国志』(0)


『三国志』の「元本」は2つあるようだ。

(1)  陳寿『三国志』
(2) 『三国志演義』

 
陳寿『三国志』は、現在、中国の「正史」の一つとされている。一方、「演義」とは「中国で、歴史上の事実をおもしろく脚色し、俗語をまじえて平易に述べた小説」(デジタル大辞泉)である。

我々が慣れ親しんでいるのは、吉川英治の小説『三国志』、NHKの人形劇『三国志』、横山光輝の漫画『三国志』などであろうが、これらは全て『三国志演義』を土台としている。つまり、我々の多くが知っている『三国志』は、史実ではなく創作物である。

この「100de名著」のテキストは、陳寿『三国志』を土台として解説され、折に触れて『三国志演義』との違いの説明がある。そのため、このテキストで示される『三国志』は、我々が慣れ親しんでいる『三国志』ではなく、史実に近い。

では、「正史」である陳寿『三国志』の記述は正しいのか。小説である『三国志演義』よりは史実に近いが、「正しい」とは限らない。何故か。
 
===== 引用はじめ

「正史」とは「正しい歴史」ではなく、
あくまで国家の「正」統性を示す目的で記された「史」書である。

===== 引用おわり

 
話が逸れるが、これを読んでなるほどと合点したことがある。

中国や韓国がさかんに「正しい歴史」を日本に要求している。

日本人は、史実によって示される「正しい」歴史に向き合おうとする傾向が強い。それが自分の国に都合が良くても悪くても、「正しい」ものは正しいのだ。

一方、中国人や韓国人にとっては、自分たちに都合の良い歴史は「正しい」歴史であり、自分たちに都合の悪い歴史は「誤った」歴史なのだ。

 

こう考えると、次の二つの現実が、うまく説明できる。

(1)  中国人や韓国人が、自分たちに都合のよい「正しい歴史」を主張するのは、「愛国者」である国民として自然な状態だ。さらに、彼等はかつて学校で、今は国やマスコミから、統制された情報を与え続けられている

(2)  日本が南京や慰安婦の問題でいくら史実にもとづき説明しても、中国や韓国は、聞く耳を持たず、かみあわず、議論は平行線になり進まない。彼らは「日本は都合の良いように歴史をねじまげようとしている」と主張している。自分たちがそうしているので相手もそうだろうと想像するのは不思議ではない。そもそもの発想が違うので、日本人はわけがわからず、固まってしまう。

 
一方、次の二つは、理解できない

(1)  自分たちに都合の良い「正しい歴史」を自分たちが信じようとしていることは、「正しい」か否かをとりあえず棚上げすれば、心情としては理解できる。しかし、その「自分たちの国にとって正しい」歴史を他国に強要することはありえないことだと私は思うが、現実にはそういうことが起こっている

(2)  中国・韓国にとって都合の良い歴史を中国人・韓国人が主張するのは、現実としては十分ありえる。しかし、それを主張する「日本人」が少なくないのは、私から見ると奇異である。「日本にとって都合が良かろうと悪かろうと正しいものは正しい」と学問的に主張するならわかるが、聞いているとそのその根拠は、史実に基づくものではなく、中国や韓国にとっての「正しい歴史」に基づいているようである。なぜその人たちが「日本人」なのか、よくわからない。たまたま日本に住んでいるということなのだろうか

 
このあたりで止めておこう。

 

日本の歴史上の人物は、必ずしも司馬遼太郎の小説の通りではなかっただろうと私は思っている。しかし、その小説を多くの日本人が愛しているのは事実であり、また、その小説から自分の生き方の指針や目標を見出している人も少なからずいるだろう。そのことも無視でない。

===== 引用はじめ

『三国志演義』は魅力的な作品ではありますが、あくまでも『三国志』や後世のさまざまな伝承、そして中国の近世のさまざまな文化的土壌をもとに成立した創作物です。もちろん、そこから『三国志』が受容された社会のあり方、中国の民心、さらにそれを受け入れた日本の考え方が見えてきますので、『三国志演義』というフィクションそのものにも重要な意味があります。

===== 引用おわり

 
陳寿『三国志』によれば、

  220年、後漢最後の皇帝である献帝(劉協)は、曹操の子・曹丕に禅譲した(漢→魏)
  265年、魏の第五代皇帝・曹奐(曹操の孫)は、晋の初代皇帝・司馬炎に禅譲した(魏→晋)

陳寿『三国志』は、晋が正統な国であることを示している正史である。陳寿は晋の臣下だったので、晋を悪くは書けない。

 

一方、『三国志演義』は、主として蜀の立場から書かれている。

私には「曹操は悪人」といったイメージが強いが、『三国志演義』の流れの本から知識を得ているからだろう。歴史は、歴史書を書いた人の立場により、ずいぶん違ったものに見えてくる。

 

出典:
渡邉義浩(2017/5)、 陳寿『三国志』~真の「英雄」とは何か~、「100DEで名著」、NHK出版

写真:陳寿

2017年4月28日金曜日

(857) 高齢がん患者


政府と国立がん研究センターが、高齢のがん患者に対する抗がん剤治療について「延命効果が少ない可能性がある」とする調査結果をまとめたことが26日、分かった。

 
紹介されたいくつかのデータを転記すると、

(1) 主に肺がん▽大腸がん▽乳がん-で末期(ステージ4)の高齢患者の場合、抗がん剤治療の有無にかかわらず、生存率は同程度にとどまった。

(2) 肺がんの場合、生存期間が40カ月以上のグループは抗がん剤治療を受けなかった患者のみだった。

(3) 同様に75歳以上で見た場合、10カ月以上生存した人の割合は、抗がん剤治療を受けなかった患者の方が高く、生存期間も長かった。

 
高い金を払い、苦しい思いをして抗がん剤治療をしてきても、役に立っていなかった、寿命を縮めていてのかもしれないと思うと、唖然とする(私が治療を受けているわけではない)。

もっとも、(2)において「抗がん剤治療を受けなかった患者」は軽症の人ばかりだったかもしれない。そう簡単に決めつけられない。

 
専門家である医者は正しいことを言っていることが多いだろうが、間違ったことも言っていそうだ。それを素人がどう判断すればよいかわからない。でも、自分の命については自分で判断するしかない。

 
産経新聞記事(2017/04/27朝刊・1面)

 
予告:
がんについて、秋田県玉川温泉の話を最近聞いた。後日、これについて書く予定。

2017年4月27日木曜日

(856) 挫折体験、私の場合(自己分析)


大分前(4/17)になるが、(846)Ayako Ueda さんから「藤波さんが挫折?ないない止まってしまう?ないないどれも足りてます」というコメントをいただいた。

 
私はそのように見えているようだ。
順風満帆で、苦労知らずで、平和な雰囲気に見えているのだろう

 

ところで私は、本当に「挫折ない」のだろうか。

 
「すごく悲惨な体験」は、私はしていないと思う。それでも、
もしも別の人が私の人生をたどったら、「いっぱい挫折があった」と言うだろう。
客観的に言えば、私は「挫折だらけ」だと思う。

しかし、

主観的には「挫折感」はあまりない。

何故だろうか? 考えて見た。

 多分、価値観だと思う。

 
一つ目に、私は、出世とか名誉とか名声とか金持ちとかに憧れておらず、あまり気にしていない。だから、それらが得られなかったといって、そう気落ちはしない。

 
二つ目に、たえず複数の価値観と複数の目標を持っている。

「挫折」したのは、一部の価値観に関してであり、一部の目標に対してである。私の全てに関わることはではない。だから、「挫折」したといってもほんの一部で、それを気にするより、失っていないところに気が回る。「挫折し」たころは、とりあえずそのまま放っておいて、別の価値観・目標に注力する。

ただ、捨ててしまったのではない。落ち着いたら、また舞い戻る。

失敗は、成功への道筋の一つの過程だと思う。一つ失敗したということは、一つ成功に近づいたということだ。

しかし、見込みのなさそうなものは方向転換する。方向転換する前のものは捨てる。捨てるものは捨てないと、先に進めない。そして、方向転換できたのも立派な成果であり、それは失敗のおかげだと思う。

方向転換し続けた結果、多分、最初のものが跡形なく消えているものもあるだろう。「だろう」といのは、覚えていないからである。私の関心は未来に向かっており、関心の薄い過去は忘れ去られる。考えなければいけないことが多いので、過去を覚えておくために脳みそを使う余裕がないのだろう。断続的ではあるが継続しているので、「最初のものがうまくできなかった」という感覚はない。

嫌だったことはどんどん忘れている。その場で何故悪かったのか、今後はどうすべきだろうか、などと考え、それを抽象化・一般化し、出来事そのものは忘れてしまう。

このようにして私には「失敗に終わった」ということは、少ないのだろう。

 
三つ目は、「今回はたまたまうまく行かなかったけれど、結構頑張ったよね」と思えた時は、うまくいかなくても、私は割り切ることができる。「結構頑張ったよね」と自分に言えないと苦しくなるので、それを避けるため、結構頑張っていると思う。

 

なお、止まってしまうことは少ない。
「止めてしまわないようにするしつこさ」があると思う。
本当に良いものは、そのしつこさの後ろにあると知っているからである。

2017年4月26日水曜日

(855) 挫折体験


挫折体験は誰にもあり、これを避けようとすると、何もできなくなる。

挫折体験を通じて、現実的な解決に向かい、更に未来に向かえる人もいる一方、
現実的に解決できず、精神が弱まり、悪循環陥る人もいる。

挫折にどう向き合うかにより、その人の人生が変わっていく。

===== 引用 はじめ

健康人は不満足な結果という事実に対して、より努力するか、要求水準を引き下げるかの現実的な判断をします。

これに対して、神経質では、結果という事実から目を背け、高い要求水準を引き下げることもできず、堂々めぐりの悪循環に陥ります。

健康人のように挫折体験を現実的に解決すれば過去の失敗は「笑い話」になりますが、
神経質では自分の要求水準が高くなりすぎてしまい、独りで劣等感を感じ続けることになります。

===== 引用 おわり

 
森田療法の説明から、引用した。
次のように続く。

 
===== 引用 はじめ

このような「生き方」の問題が神経質の本質であると見抜いたのは森田の慧眼で、同時に「神経質を活かす」ことで健康を取り戻すという解決法まで提示してあることが、森田療法が最強の精神療法とも言われる理由なのだと筆者は考えています。

===== 引用 おわり

 
星野良一、「浜松医大の入院森田療法・外来森田療法」―わかりやすい森田療法に取り組んだ20年―、メンタルニュース No.33(201511) 、(公財)メンタルヘルス岡本記念財団、P.2

2017年4月25日火曜日

(854) まえがき / 仏教と儒教(0)


放送大学

「仏教と儒教 ~ 日本人の心を形成してきたもの ~ 」

を半年かけて学ぶ。

 
 今日、多様な文化を深く理解し、それぞれの優れた点を統合して新しい文化を創造していく能力さえ求められている。その能力を育てていくためには、まず自国の文化の歴史や特質、そこにあるさまざまな人間観・世界観等を理解しておくことこそ重要だろう。

 私たちは自国の文化の伝統を深く尋ねることにより、自己のいのちの基盤が自覚され、またそれらをどのように未来に活かすかの構想も描かれて、より豊かに生きることができるだろう。

 そうした文化の根底にあるものは、思想・理念である。ものの見方・考え方が根本にあって、そこからさまざまな具体的活動も展開されていく。

 日本人のものの見方・考え方として、思想として言葉を伴って展開されたものといえば、仏教と儒教が中心である。仏教も儒教も外来思想だが、日本に受容され追求されていくなかで、日本独特のものが形成され、そこに日本人独特の感性や霊性が反映されている。

 日本文化・思想への理解を深めていきたい。

 
目次

1. 序論 仏教の成立と広がり

2. 仏教の日本への伝来

3. 平安時代の仏教

4. 鎌倉時代の仏教(1)源信・法然

5. 鎌倉時代の仏教(2)親鸞・一遍

6. 鎌倉時代の仏教(3)栄西・道元・日蓮

7. 近世・近代の仏教

8. 仏教と日本文化

9. 中国文化と儒教

10.   日本文化と儒教

11.   日本における儒教の受容

12.   日本儒教の完成(古学の1)

13.   日本儒教の完成(古学の2)

14.   日本社会における儒教の影響

15.   日本の思想 神道・仏教・儒教と近代化

 

引用:
竹村牧男・高島元洋(2013)、仏教と儒教~日本人の心を形成してきたもの~、放送大学教材

(853) 朝の詩_(9) ほめる・(10) 心暖まりて


(A)     ほめる

(B)     心暖まりて

 
===== 引用(A) はじめ

朝の詩

 ほめる

  千葉県柏市
  飯村 雅子 59

 
歳を重ねて

上手になったことは

自分をほめること

 
不器用だけれど

一生懸命

生きている

 
そんな自分を

認められるように

なったこと

 
(選者 新川和江)
===== 引用(A) おわり
産経新聞 (2017/3/26)

 

不器用だけれど
一生懸命
生きている

そういう貴方が
見えるようになってきた


一生懸命になれないと
悩んでいる姿は
不器用だけれど、

そのように
一生懸命生きている

 
誰もが
一人の例外もなく
一生懸命生きている

そう気づいて
一人一人に
敬意を抱くようになった

 
歳を重ねて
少し、
上手になったこと

 

===== 引用(B) はじめ

朝の詩

 心温まりて

  兵庫県西脇市
  山下 智一郎 53

 
両手で

私の手を取り

暖めようと

してくれた人

その手は私より

さらに

冷たかったけれど

 
(選者 新川和江)
===== 引用(B) おわり
産経新聞 (2017/4/3)

 

両手で
あなたの手を取り
暖めようとした

あなたの手の方が暖かかった
 
あなたの手はピクッと動き
握り返してきた

 
そんなことも、あったな

 
両手で
あなたの手を取り
暖めようと思った

でも、
私の方が冷たかろう
 

差し伸べて止まった手を

あなたは、
にっこり笑って
両手で包んだ

2017年4月23日日曜日

(852) 「死」を見つめて生きる(3)人生は旅である / 人生論ノート(4-3)


~ 『100分で名著』 424() 22:25 – 22:50 Eテレ 放映 ~

 
「自分の人生における充実した時期」を振り返ると、それは目標を達成した時というより、目標に向かって努力している時、特に、手応えを感じている時だと思う。そういう意味において、今も充実している。

目標を達成した時はとても嬉しいが、長続きしない。輝いていた目標も、手に入れると輝きを失う。なにか物足りなくなり、次の目標に向かって進みはじめたとき、その物足りなさは薄らぐ。

 

===== 引用 はじめ

若くして亡くなった人について、道半ばで無念であったろうというふうに考えるのは、実は違うのではないかと私は思います。到達点だけでなく、過程を見れば、そこにはその人にとっての喜びや充実した時間があったはずです。いつ、どこで人生を終えたとしても、生きた瞬間、瞬間が完成しているのです。

===== 引用 おわり

「人生は旅である」「たとえ目的地に辿り着けなかったとしても、旅の途中を味わっていれば、得るものは様々あります」という。上記の引用と符合する。

 

三木は「旅について」いろいろ語っている。

 
『出発点が旅であるのではない、到達点が旅であるのでもない、旅は絶えず過程である』

『旅に出ることは日常の生活環境を脱けることであり、平生の習慣的な関係から逃れることである。旅の嬉しさはかように解放されることの嬉しさである』

『真に旅を味い得る人は真に自由な人である。 … 人はその人それぞれの旅をする。旅において真に自由な人は人生において真に自由な人である。人生そのものが実に旅なのである』

 
自由な人生の旅を楽しみたいものである。

 

一言、書き加える。

「若くして亡くなった人について、道半ばで無念であったろうというふうに考えるのは、実は違う」と先に引用した。最初はそうだったと思ったが、美しい話ではあるが、実際は違うのではないかと思った。無念に決まっている。無念でなければ、必死に生きていなかっただけだ。

必死に生きていて、一つよいことがあるだろう。それは、
避けられない運命に遭遇した時、時間はかかるだろうが、
最終的には、その運命を受け容れることができることである。

受け容れることはできても、無念はやはり、無念であろう。

 

===== テキストの結び はじめ

… 『人生論ノート』を読んだからといって、本書で取り上げられている問題に直ちに答えられるわけではありません。しかし、どう考えていけば充実して豊かな人生を歩めるかという指針は見つかるでしょう。…

===== テキスト結び おわり


岸見一郎(2017/4)、三木清『人生論ノート』、100de名著、NHKテキスト
写真:三木の故郷、竜野


5月は、陳寿『三国志』 ~ 英雄たちの“真の姿”とは ~
テキストは、4月25日発売予定


(851)「死」を見つめて生きる(2)生きる力・死ぬ力 / 人生論ノート(4-2)


「執着してはいけない」と普通は言われそうだが、
三木は執着を肯定的にとらえ、
執着は生きる力になるし、死ぬ力にもなるとしている。

 
執着するものがあれば死ぬに死ねないという。ならば、それは生きる力になるはずである。例えば、「我が子の行く末を見届けずに死んでしまうのは何とも寂しい」と思うと、なんとか生き続けようとするだろう。

一方、『死後自分の帰ってゆくべきところ』があると思えば、その思いは死ぬ力にもなるであろう。帰ってゆくべきところはとは、思いを残した人のところである。この話は、次の一つ目に繋がる。

 

テキストには様々なことが書いてあるが、私が要約すると、「死んでも生き続けると思える」ことが「死ぬ力」になる。それは、3つある。
 

第一に、生き残った愛する人の中に生き続ける。亡くなった人のことをありありと思い出しているいるとき、まるでその人が今ここにいるかのように感じることがある。娘・洋子が思い出してくれた時、三木も戻ってこれるかもしれない。

第二に、自分が死ねば、愛する死んだ人と会えるかもしれない。三木も妻・美恵子と会えるかもしれない。『自分の親しかった者と死別することが次第に多くなった…。もし私が彼等と再会することができる ―― これは私の最大の希望である ―― とすれば、それは私の死においてのほか不可能だろう』

第三に、作品や業績の中に生き続ける。『その人の作ったものが蘇りまた生きながらえるとすれば、その人自身が蘇りまた生きながらえる力をそれ以上にもっていないということが考えられ得るであろうか』

 
結果は、どうだったか

第一 → 三木は多分、娘・洋子の中で生き続けただろうが、確認はしていない
第二 → 三木が死後、妻・美恵子と会えたかどうかは、定かでない
第三 → 三木の作品・思想は生き続け、三木も生き続けている

 

私も、似たことを考えている(似てはいるが違う)。

死の恐怖の本質は、自分が死によって無くなってしまう恐怖であろう。自分が永遠なるものと一体化したとき、死の恐怖から逃れることができる。永遠なるものは、神であっても、自然であっても、人類であっても、作品や業績であってもよい。「その人にとっての永遠なるもの」であればよい。

「私にとっての永遠なるもの」は、子どもたちであり、深く関わった人たちである。私が生きていなかったら、私がいなかったら、それらの人達は、良きにつけ悪きにつけ違ったものであっただろう。望んでも望まなくても、私は「否応なく」生き続けるだろう。

 
だから、そのようなことを(死について)思い悩んでも意味がない。
私にできることは、よく生きること。これ以外はない。

 
引用:
岸見一郎(2017/4)、三木清『人生論ノート』、100de名著、NHKテキスト
写真:西田幾多郎と三木清との写真。西田幾多郎から三木清への葉書。