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(K0710) 寄り添いの本質は「自らが問われる」(1) / 「寄り添いに求められるもの」(6) <後見と電話相談>
http://kagayakiken.blogspot.com/2019/04/k0710-16.html
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第3回 15日放送/17日再放送
タイトル: 「困難」と向き合う
【テキストの項目】
(1) 諦めない勇気
(2) 悲しみや苦しみの中で自分を見失わない(3) 「善悪無記」なものに執着しない
(4) 運命を受け入れる
(5) 悪の存在
(6) 運命を「自由意志」で受けとめる
(7) 困難を受けとめる力を信じる
(8) 過去を振り返らない、未来を案じない
【展開】
(1) 諦めない勇気
例えば、親を亡くすとか、病気や老いに直面した時、そのことは耐え難い苦しい事であっても、自分だけが初めて経験することではなく、先人が乗り越えてきたことであるならば、お前にもできないことはない。
失敗した時のことを考え、結果を出すことを恐れて、取り組む前からさまざまな理由を持ち出して挑戦しないよりは、挑戦せよ。
(2) 悲しみや苦しみの中で自分を見失わない
悲しい出来事に遭うことを避けることはできません。問題はそれをどう受け止めるかです。そのようなことが起こったのが不幸なのではない、悲運に打ちのめされていることが不幸です。
それを気高く耐えることが幸福につながります。気高く耐えるとは悲しまないことではなく、時間がかかってもやがて立ち直っていくことだと考えます。悲しみはすぐに癒えることはありません。しかし、それでも今よりも少し立ち直り、生きていこうとしている姿を見る時、亡くなれた方は安堵されるのではないでしょうか。
(3) 「善悪無記」なものに執着しない
「善悪無記のものに無関心でいる」ならば、この上なく立派に生きることができるとアウレリウスは言います。「善悪無記」とは、それ自体では善でも悪でもないという意味です。例えば、財産、地位、成功、さらには容姿、健康など。
アレテー(徳。何が善か悪かを判断する理性が働いている状態)が「善悪無記」に伴えば膳になり、伴わなければ「善悪無記」があっても不幸になることがあります。生死も「善悪無記」です。それ自体では善でも悪でもないものに価値判断をすれば、そのことが囚われになり、自由に生きることができなくなります。
(4) 運命を受け入れる
「起こることは、すべて正しい」「自然に即して悪いものは何一つない」ので、「自分に起こり織り込まれたもの(運命)を愛し、歓迎すること」とアウレリウスは書いています。似たことをニーチェは「人間の偉大さを表す私の公式は運命愛だ。何ごとも他のようにあれと思わないこと、未来においても、過去においても、永遠の全体においても」と書いています。
しかし、抵抗を感じる人もいるでしょう。もしも、私たちの身に起こることがすべて「自然に即して」「正しい」とするならば、不幸で理不尽な出来事は起こらず、悪も存在しないはずだからです。
(5) 悪の存在
この世に悪が存在することと、神の善にして全能なることは両立しないのではないかという問いに、ラビ(ユダヤ教の教師)であるH・S・クシュナーは、「神は善だが全能ではないので、神は悪の原因ではない」と考えました。
(6) 運命を「自由意志」で受けとめる
不幸な出来事は現実に起こります。そうであれば、必要なことは自分や家族に「なぜこんなことが起こったのか」という過去や苦しみに焦点を当てた問いから脱却し、未来に目を向けた問いを発すべきだとクシュナーはいいます。
(7) 困難を受けとめる力を信じる
ホスピス医療に関わる山崎章郎は次のように言います。「確かに、つらい情報を担い切れない人もいるだろう。だが、同時にそのつらい運命を受け入れ、自分なりに乗り越えていく人たちも確実に存在することを忘れてはならない」
私(=著者 岸見)の患者としての経験から言えば、現実を受けとめる力が私にはあると信頼してもらえることが自分の運命を受けとめる力になったと思います。
(8) 過去を振り返らない、未来を案じない
アウレリウスは、過去も未来も善悪無記と考えます。過去を振り返って悔やんだり、未来を案じたりするのではなく、今できることをする。今を「どう生かすか」の答えを見つけていくところに、私たちが哲学を学ぶ理由があるのだと思います。
<出典>
岸見一郎(2019/4)、マルクス・アウレリウス『自省録』、100分de名著、NHKテキスト(NHK出版)
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