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2017年8月19日土曜日

(970) 人間を最後に支えるもの / 大岡昇平『野火』(3-1)


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(K0111) 後見人の難しさと易しさ <後見人/システム構築>
http://kagayakiken.blogspot.jp/2017/08/k0111.html
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100分で名著』 8月21日() 22:25 22:50 Eテレ 放映
 

 人は死へと追い詰められた時、倫理を放棄するのではなく、倫理感がより鋭敏に作動するものなのだろうか。

 生物は、食べるものが限界以下になると、生き続けられない。人間も同じである。では、限界ぎりぎりまで追い込まれた人間は、どのように行動するのだろうか。

 極限状況に置かれた兵士は、人肉食に踏み込んでしまうのか。

 人間というものは、そう単純なものではない。

 

【今投稿の目次】

(1)  自分の血を吸った山蛭を食べる

(2)  死体の臀部を食べたのは何者か

(3)  生食死肉

(4)  自然の法則の通りには、人間は動かない

(5)  奇妙な自己犠牲の精神

(6)  剣を持った右手を抑える左手

(7)  「生食死肉」よりも許されないこと

 

【各論】

(1)  自分の血を吸った山蛭を食べる

=====引用はじめ
 雨が降り、木の下に寝る私の体の露出した部分は、水に流されてきた山蛭によって蔽われた。その私自身の血を吸った、頭の平たい、草色の可愛い奴を、私は食べた。
=====引用おわり
 

(2)  死体の臀部を食べたのは何者か

=====引用はじめ
 田村は路傍の死体を見やり、その臀部の肉が失われていることに気づきます。そして、それが野生動物の仕業でなく人間の仕業であることを直感する――。その理由が以下です。
 誰が屍体の肉を取ったのであろう――。… 私がその誰であるのかを見抜いたのは、或る日私が、一つのあまり硬直の進んでいない屍体を見て、その肉を食べたいと思ったからである。
=====引用おわり


(3)  生食死肉

=====引用はじめ
 シンプルに「動物」として考えるなら、生きている者が優先であり、先に亡くなった者は生きている者を生き長らえさせるために、食べられて本望という感覚 … 生きる者が食べ、死んだ者が肉となる「生食死肉」です。
=====引用おわり
 

(4)  自然の法則の通りには、人間は動かない

=====引用はじめ
 生きている者が死んだ者の肉を食べること自体が自然界の法則としかいいようがありません。
 ただし人間にとっては、犬や猿のようにただ本能のまま行動する局面など、そう多くはないでしょう。理性や倫理、文化的な知識も抱え込んでいます。
=====引用おわり

 「『生食死肉』を許容する『死にゆく者』」(5)と「『生食死肉』を逡巡する『生きようとする者』」(6)とがある。
 

(5)  奇妙な自己犠牲の精神

=====引用はじめ
 道端に横たわった将校は、ほぼ譫妄状態にあってうわ言をつぶやきながら、田村に向かって、「何だ、お前まだいたのかい。可哀そうに。俺が死んだら、ここを食べてもいいよ」といい、痩せた左手を挙げ、右手でその上膊部(二の腕)を叩いたあと、息絶えていきます。
=====引用おわり

 
(6)  剣を持った右手を抑える左手

=====引用はじめ
 田村は死体から蛭を除き、上膊部の皮膚を二、三寸ほど露出させ、右手で剣を抜きます。
 その時変なことが起こった。剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである。
=====引用おわり

 
(7)  「生食死肉」よりも許されないこと

=====引用はじめ
 その花が「あたし、食べてもいいわよ」と語りかけてくるのです。田辺は飢えているので、摘もうとする。
 その時再び私の右手と左手が別々に動いた。

 私はこれまで反省なく、草や木や動物を食べていたが、それ等は実は、死んだ人間よりも、食べてはいけなかったのである。生きているからである。
=====引用おわり
 


 人は死へと追い詰められた時、倫理を放棄するのではなく、倫理感がより鋭敏に作動するものなのだろうか。
 

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