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2017年8月13日日曜日

(964) 習合思想の解体 -世俗化と近代化- / 仏教と儒教(15-3。最終回)


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http://kagayakiken.blogspot.jp/2017/08/k0105.html
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 私は思うのだが、とってつけたように単に一緒にしただけでは「習合」とは言わない。日本の「習合思想」は、とても高度なものと思う。神道も仏教も儒教も、各々が完結した独自の体系をもつ。各々の本質まで立ち入らないと、それらを「習合」させることはできない。

 古代においては神道を中心とした「神仏習合」、中世においては仏教を中心とした「本地垂迹説」「禅儒一致・儒仏不二」、近世においては儒教を中心とした「儒家神道」と、次々に「習合」していった。新たな思想が外来するたびに、「習合」していった。それまでの自分を捨てることなく、新しいものを迎え入れ吸収してきた。

 習合思想は、排除されたと言われているが、どうだろうか。明治維新に西洋文化が入ってきた、戦後にアメリカ文化が入ってきた。それを日本は見事に取り込んでいった。その能力は、鍛え上げてきた「習合」によるものであるように、私には思える。

 

  以下、テキストから抜き書きした(原文のままでなく、まとめている)。

 近世思想は、神道も仏教も宗教としての超越性を弱めて、儒教の影響のもと世俗化する。世俗化は、一方で近代化である。合理的思考が展開すると、学問も高度なものとなる。

 日本朱子学を徹底的に批判して、伊藤仁斎や荻生徂徠の古学が成立する。習合思想が批判され純粋な思想に向かう傾向は、17,8世紀から始まる。

 習合思想を排除し整合的な理論体系を構築する過程で、じつは人間の心の中にある混沌とした無意識の領域に注目していた。古学や復古神道があらためて発見したことは、人間の精神活動における意識的な領域(理性)に対する無意識的領域(感情・情念)であった。

 仁斎も徂徠も朱子学を批判した。「理」による認識は、「残忍刻薄」(不寛容)であり、存在を「縄」(ほんらい存在しないあるべき枠組み)で縛り上げるようなものであるとした。

 朱子学批判は、宣長に継承される。人間は、「理」を基準として論(アゲツラウ)うべきものではなく、「真心」とか「実情」から理解された。「真心」とは、人の自然な感情・欲望である。また「実情」とは、「有りのまゝ」とは、「まこと」の「人情」である。

 

引用
高島元洋、「第15章 日本の思想 神道・仏教・儒教と近代化」
竹村牧男・高島元洋編、仏教と儒教~日本人の心を形成してきたもの~、放送大学教材(2013)

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