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2017年8月11日金曜日

(961) 習合思想 / 仏教と儒教(15-1)


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【構成】 「第15章 日本の思想 神道・仏教・儒教と近代化」

(1) 習合思想

(2) 神道

(3) 習合思想の解体 -世俗化と近代化-

今回は、「習合思想」について書く。

 

 日本文化は、さまざまな外来思想を受容するが、その多くは日本社会に適合するように変形する。日本仏教(日本で受容された仏教)も日本儒教(日本で受容された儒教)も、大陸のもともとの仏教・儒教を日本の社会構造に対応して変形させたものである。
 

 日本の宗教・思想の場合、「習合思想」は、おおむね神道・仏教・儒教という枠組みから説明される。

   古代において主となる宗教は神道であり、その習合思想に「神仏習合」がある

 仏教受容における「仏」の最初の認識は、日本人が古来から伝承してきた「神」観念の枠組みのなかに位置付けられた。旧来の神道と新種の仏教とのあいだに深刻な宗教的対立は起こらなかった。「仏」は「神」の一種であり、「仏教」は日本における最新の宗教形態として受け止められた。このような受容から、「神仏習合」が起こる。これは神が、仏法を悦び、その供養を受け、これを護るということであるが、同時にその実際は、仏法が神道に優越する立場にあることを容認することであった。
 

   中世において主となる宗教は仏教であり、その習合思想に「本地垂迹説」「禅儒一致・儒仏不二」がある

 ここにおける習合思想には、仏教と神道との間に成立する「本地垂迹説」と、五山の禅僧において理解された「禅儒一致・儒仏不二」という考え方がある。

 「本地垂迹説」は、神仏習合をさらに徹底した思想である。仏教を本地とし、神道を垂迹とする。本地とは根本(本質)である。垂迹とは仮の姿(現象)である。神は仮の姿であり、その真の姿は仏にある。仏は、日本人を救うために在来の神となって垂迹すると説く。

 中世日本において文化の中心となったのは五山である。五山僧においては、「儒仏道の三教一致」あるいは「禅儒一致・儒仏不二」という理解で、儒教が受容された。世俗の儒教的教養、最新の文化として、儒教を禅の宗教的世界の一環として受けとめた。

 
   近世において主となる宗教は儒教であり、その習合思想に「儒家神道」がある

 近世神道のなかには、儒教を核として神道思想を展開する「儒家神道」と、神道を中心にして儒教を取り込む思想とがあった。いずれの場合も、神道と儒教は密接な関係にあった。このような習合関係を最終的に否定するのが、本居信長の復古神道である。

 
 
引用
高島元洋、「第15章 日本の思想 神道・仏教・儒教と近代化」
竹村牧男・高島元洋編、仏教と儒教~日本人の心を形成してきたもの~、放送大学教材(2013)

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