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2016年10月20日木曜日

(667) 言葉と思考


前回のFacebookで「藤波さんが言われているのは、祈る?=願う?」というコメントをいただいた。大切なことなので、あらためて取り上げる。

 
日常生活で使う言葉は、色々な人が、色々な言葉を、色々な状況で、色々な意味を込めて使う。だから、それぞれの言葉の意味する範囲がボワーと広く、重なり合い、違いが明確でなくなる。それでは思考が深まらない。

 
思考を深めるために、「世の中では色々な意味で使われているようだが」、「私はこの言葉をこういう意味で使う」と宣言する方法がある。

 もう一つは、「重なり合い、違いが明確でない」に対して、「重なりはなく、違いが明確である」さらには「対極にある」「真反対である」と位置づけ、何故違うのか、どう対極にあるのかを説明しようとする方法である。そうすると、各々の言葉の使い方が狭まり(狭めなければ違いを説明できない)、定義が明確化される。

 
 第一の方法については、私は二つの事例をあげた。私がここで「祈る」という言葉を使う時、それは一般的に使われるのとは少し違うかもしれないが、「こういうのを私は祈りと呼びます」「私が祈りという言葉を使う時、こういう意味だと理解してくださいね」と宣言している。つまり私のいう祈りは、「世間いうボワーとした範囲の祈り」の、このあたりの一部だと説明し、意味の範囲を絞り込んでいる。

 第二の方法については、「本物の祈り」と「邪な祈り」とを対置することにより、「本物の祈り」がどのようなものであるかを明確にしようとしている。

 

 前置きが長くなってしまった。「祈る?=願う?」に戻る。

 

 三つの相を想定したい。

(1)   「世間一般の祈る?=世間一般の願う?」

(2)   Ayako Uedaさんの祈る?=Ayako Uedaさんの願う?」
    (注)Ayako Uedaさんは、コメントしてくれた人

(3)   「藤波の祈る?=藤波の願う?」
    (注)藤波は、私

 

(1)   については、意味の広がりが大きく、重なる部分も重ならない部分もあり、なんとも言えない

(2)   については、Ayako Uedaさんがどういう定義でその言葉を使っているか、私にはわからない。多分、世間一般で使っているより限定した意味で使っていて、藤波とは違う限定の仕方をしていると思う。なんとも言えない

(3)   私に関心があるのはここだけである

 
私が書いたのは、

「本物の祈り」≠「邪な祈り」

「本物の祈り」は、
  大切なものは、自分の外にある
  自分でできることは、すべてしている

「邪な祈り」は、
   なすべきことをなさず、
  自分の利益を願う

 
「願う」という言葉は、私は定義していない。

世間一般の使い方ならば、「本物の祈り」も「邪な祈り」も、「願い」に含まれていると思う。何しろ「ボワーとしたひろい範囲」で使っているので。

 


「余計にわからんようになってしもうた」でしょうか。

ごめんなさい。

私は、こういう説明しかできないのです。

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