生命倫理学の立場から、小原信は、「死」について7つの命題を挙げた
(1)
延命の限界
われわれはたとえ長く生きられるとしても、死ななくなるわけではない
(2)
ひとりずつの死
わたしの死は、わたしの死であるが、同時に家族や友人の死でもある
(3)
病院での死
誕生から死去にいたる生のすべての過程を、安易に病院側に管理させすぎてはならない
(4)
魂の死もある
肉体が病み肉体が死ぬことだけを恐れるが、見えないところで魂を失い、精神が絶望することを恐れない
(5)
深まる死の孤独
ひとはQOL(Quality of Life)が低下するとき、見えないところで絶望する
(6)
「QOD(Quality of Death)」のある死
死にゆくひとの、「死にがいのある死」のためのよき指針がいま切に求められている
(7)
死にゆく人のケア
ひとが生まれてくるのに「助産婦」がいるのなら、死にゆく者には「助死者」的存在が必要である
< 各論 >
(1)
延命の限界
医学は、いくら進歩しても、人の死をなくすことはできない。長寿国の日本人は、いつまでも生きられるつもりで、老いや死を忌みきらい向き合おうとしないが、それはいつか来る死と向き合おうとしない錯覚にすぎない
(2)
ひとりずつの死
人はひとりずつ死ぬが、わたしだけの死はない。わたしの死は家族の死でもあり、家族の死は私の死でもある。だが今後、人間関係が矮小化するにつれ、自分に見えないものには、気付かないまま、死などないとみなし、一回的な生を真剣に自覚しない生き方がはびこることになりそうである
(3)
病院での死
ひとはいま、自宅で死ぬより、病院などの施設で死ぬ方が多くなった。そのため、ひとの死が前以上に見えないまま、だれかに管理されるかたちで、死をより無機質的な死とみなして、死を施設に委託しがちである。その結果、人間らしい死を放棄し、死を非人間化する傾向を加速化させつつある
(4)
魂の死もある
ひとは肉体を病むが、精神も病む。肉体はいつか死ぬが、精神も死ぬ。ひとの死を、肉体の死からだけとらえる人は、生のただなかで、魂がどれだけ深刻に絶望(魂の死)するか、社会的寿命によってQOLが低下させられるかに留意しないまま、もっぱらデジタル的延命だけを求めつづける
(5)
深まる死の孤独
医療活動が、①緊急時のハイテク医療、②ながくつづく慢性疾患、③末期がん患者のケア、というふうに三極化するにつれて、一人ひとりの患者を、生きた人格的存在(person)として、より全体的にとらえる視点が曖昧化していく。患者の闘病と臨終の実態は、施設のハイテク化と病院死の日常化のせいで、ますます孤独の度合いを深めていく
(6)
「QOD」のある死
生命倫理ではQOL(Quality of Life)を口にするわりに、QOD(Quality
of Death)を言わない。「生きがい」のある生はもちろん重要であるが、「生きられがい」のある生も必要である。死にゆく者には「死にがい」のある死がほしいが、残された者には「死なれがい」のある死がほしいことも忘れないでいたい
(7)
死にゆく人のケア
それぞれの死を、死にがいのある「有終の死」にするために、死にゆくものを心からケアしながら、その死を看とる「助死者」的な人が必要である。carer としての遺族 griefwork を和らげ、慰め care をする人が、今後はもっと必要になる
引用
小原信、『「死」の現在についての7つの命題』、死を考える 生命倫理学、「死生学がわかる」、AERA Mook(Number
60,2000)、朝日新聞社、P.50 ~ P.56
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