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2016年9月11日日曜日

(628) 「人権」という言葉 / 石牟礼道子『苦海浄土』(2-2) (9月12日(月) 22:25 – 2250 Eテレ 放映)


最近、「人権」という言葉を聞いて、
落ち着けないことがよくある。

何かが変なのだが、
どう変なのかを説明できない。

 
以下の文を読んで、
なるほどそういうことだったのか、
と思った。

===== 引用 はじめ  P.45 P.46

 他者が傷付くのを見ると自分の心も痛む。これが本能的な連帯心です。水俣病という未曽有の問題に立ち向かうとき、近代的な理性に基づく「義務感」による連帯ではなく、本能による連帯をよみがえらせなくてはならないというのです。

  また、この指摘は、現代人がどこかで軽んじている本能の復権を唱えるだけでなく、理性だけで世界を捉えようとする今日の傾向への警鐘でもあります。

  たとえば、水俣病の問題は悲しむべき出来事だが、同様のことは世界の多くの場所で起こっていると語るとする。ここに表記上の誤りはありません。しかし、こう発言する者の心に、これまで見てきたきよ子(*)や杢太郎少年(*)の姿がありありと思い浮かんでいるかは分かりません。

  知性や理性が独走するとき、それはとても危うい。それらは本能と結びついてはじめて人間性に深く根差した働きたり得るのではないでしょうか。

  世の中で起こっていることを沈着にとらえるのが重要であるのは言うまでもありませんが、そうした営みが苦しみと悲しみを無化してしまうのであれば大きな誤認だと言わなくてはならない。社会現象も現実ですが、一個の人間の心のなかで起こっていることもまた、重大な事実なのです。

===== 引用 おわり
注 (*) 水俣病の被害者

 

 私が「落ち着けない人権」と感じるとき、
そこに人の心がないのだと思う。

人の喜び、哀しみ、悔しさ、怒り、
そういうものがスッコリ抜けて、
「理性的に」「人権」という言葉を使っているのだろう。

特に政治的な色彩を帯びた議論において、
相手への敬意がまるでなく、
論争の武器として
声高に「人権」という言葉が使われる時、
「落ち着けない」のだろう。

 ここでは「人権」という言葉の中で、
「人」が抜け落ち、「権」だけが残っている。
これは「人権」とは呼ばない。

「人権」を守らねばならない。
外からの「人権」への侵攻を、防がねばならず、
内からの「人権」の破壊も、防がねばならない。

 
引用
若松英輔(2016/9)、石牟礼道子『苦海浄土』、100de名著、NHKテキスト

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