3つの「怪しい」3部作です。
(2624)「権利」が怪しい …………………… 前回
(2625)「多様性」が怪しい ………………… 今回
(2626)「誰一人取り残さない」が怪しい … 次回
多様性を主張する人は、「多様性に反する」という理屈のもとに、自分たちと異なる考え方を攻撃する。その攻撃は、多様性とは正反対の行為である。
良いものも、悪いものも、すべてひっくるめて認めよというのが「多様性」である。自分が良いと思うものを他者が悪いと思い、他者が良いと思うものを自分は悪いと思う、それが頻繁に起こるのが、多様性社会である。
自らの考えに反対する意見を「多様性を認めない」という理由で封印しようとする、そのような「多様性信仰」を破棄しない限り、まっとうな議論ができない。
好ましい多様性と、好ましくない多様性がある。
現実は、多様性を主張している人たちが、多くの多様な文化、多様な考え方を抹殺している。西欧基準に合わない異国のものは、次々、排除されている。彼らは(実はグローバルでない)「グローバルスタンダード」を盛んに押し付けようとする。何故日本人は、日本を否定するような「グローバルスタンダード」を無批判に受け入れようとするのだろうか。「先進的西欧」の仲間に入りたいからだろうか。
彼らは、多様性の言葉と裏腹に、(自分たちの価値観に基づき)画一的世界を築こうとしている。他の価値観を認めようとしない。
多様性を唱えるなら、自らの考えに反する意見も「多様に」承認(黙認)しなければならないが、できる人は少ない。異なる意見を承認(黙認)するのが嫌なら、「多様性」という言葉は使わないのがよい。
★★★
「LGBTQ+」=「多様性」ではない。この2つは、別の次元の話である。
LGBTQ+活動の多くは、実際は、多様性を否定している。LGBTQ+を好ましいと考える人も、LGBTQ+を好ましくないと考える人も、現実として存在する。その両方を受け容れるのが多様性である。反LGBTQ+の人を、反多様性だという利用で排除しようとするのは、間違いである。
LGBTQ+を好ましくないと考える人も、LGBTQ+を好ましいと考える人の存在は認めよう。存在は認めるが、LGBTQ+に関する権利を拡大したり、世の中をLGBTQ+色に染めようとしたり、子息をLGBTQ+に誘い込もうとしたり、そのような動きに断固反対するのは、理解できる。
LGBTQ+を好ましいと考える人も、LGBTQ+を好ましくないと考える人の存在は認めよう。存在は認めるが、LGBTQ+に関する権利を拡大したり、世の中をLGBTQ+色に染めようとしたり、他者の子息をLGBTQ+に誘い込もうとしたり、そのような動きをするのは、理解できる。
どちらが正しいと決めつけてはいけない。自分の意見は主張するのは良いが、相手を根こそぎ抹殺しようとしてはいけない。多様性の名の下に、多くの人が非難され、排除されている。
多様性を維持するのは、極めて難しく、関わる誰にとっても苦渋に満ちたものとなる。それでもなお、多様性は本来、良いものだと思う。閉ざされた世界でない限り、統一した価値観は存在せず、価値観の異なる人と折り合っていかねばならない。互いに、我慢が必要であり、妥協が必要であり、その上で折り合うべく努力する。これが多様性を重んじる社会だと思う。
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