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2022年2月20日日曜日

(2574) 『日蓮の手紙』(3-2) / 100分de名著

 【 読書 ・ 100de名著 】冬は必ず春となります。 … 《中略》疑ってはなりません。間違いなく、皆さんの守りとなっておられるでしょう。さらには、きっと生まれ変わって来訪されているに違いありません。


第3回  21日放送/ 23日再放送

  タイトル: 女性たちの心に寄り添う

 

放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50

再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55

 及び        午後 00:00~00:25

 

【テキストの項目】

(1)     弱った心を勇気づける

(2)     月経など当たり前

(3)     女性は穢れているのか

(4)     女性に「聖人」という最高の称号

 

【展開】

(1)     弱った心を勇気づける

 日蓮の信奉者の特徴としては、女性が多いということを挙げることができます。日蓮は男性だけでなく、女性にも大変に慕われました。女性信徒に送った書簡も多く、四分の一以上が女性宛てです。

 男性も女性も、正法を真摯に求める者は等しく覚りを得られると説いた『法華経』――女性の心をつかんだ理由はそこにあります。けれどもそれだけではなく、日蓮自身の人間的魅力も相乗効果となっていたと私(=解説者)は考えています。

 日蓮が厚情に感謝し、また夫に先立たれた尼の悲しみを思いやり、励ましの言葉を贈った手紙です。

 『法華経』を信ずる人は、冬のようなものです。冬は必ず春となります。冬が秋に逆戻りしたことを、昔からいまだに聞いたことも、見たこともありません。《中略》

 御主人は、『法華経』に命を捧げた功徳があるので、大月輪の中か、大日輪の中かにあって、妻子〔あなたがた〕の姿を天の鏡に浮かべて二十四時間にわたってご覧になっているでしょう。しかし、妻子は凡夫(仏法の道理を理解していない者)であるので、それを見ることも、聞くこともありません。譬えば耳が不自由になった人が雷の音を聞くことがなく、失明した人が太陽を見ることがないようなものです。疑ってはなりません。間違いなく、皆さんの守りとなっておられるでしょう。さらには、きっと生まれ変わって来訪されているに違いありません。(『妙一尼御前御消息』、建治元年〔12755)

 

(2)     月経など当たり前

 かつてこの国には、「女性は穢れている」という考え方が抜きがたくありました。その偏見の理由として最たるものが、月経でした(当時は「月水」と称しました)。女性はしょっちゅう血を流して穢れているので、覚ることができないと言われたり、女性に触れてはいけないと忌避されたりしました

 「月経のときにお経を読んだり題目を唱えたりすることは慎んだほうがよいのでしょうか」という質問に対し、全く何の障りもありませんと日蓮は手紙で回答しました。

 月経というものは外からやってくる不浄〔穢れ〕ではありません。単に女性の体に生理現象として周期的に現れる変調であり、生命の種を継承する原理に基づいたものであり、また〔その時に体調が崩れるのも〕長病のようなものにすぎません。それは、例えば屎尿が人体から排泄されますけれども、浄化し、清潔にすればなんの忌み嫌うこともないのと同じです。〔月経というものは〕その程度のものではないでしょうか。(『月水御書』、文永元年〔1 264417)

 「単なる生理現象」「生命の種を継承する原理」…いまから750年も前にして、このように科学的、かつ合理的な考え方をされます。

 

(3)     女性は穢れているのか

 釈尊が存命であったころ、および直弟子たちが活躍していたころの仏教(原始仏教)には、不合理な女性差別はありませんでした。ところが、釈尊の死後百年、二百年とたつうちに、西北インドで勢力を振るっていた小乗仏教の差別主義と権威主義によって、本来の仏教が改ざんされて、女性は穢れていて成仏できないとされてしまったのです。

 日蓮は、千日尼に「『法華経』は女人成仏を最優先とする経典です」と教示していました。女性を差別しないどころか、女人成仏を最優先としているという。

 小乗仏教は女人成仏を全く許していません。

 大乗経は、あるものは成仏、あるものは往生を許しているようであるけれども、それは仏の仮の言葉であって、その事実はありません。ただ『法華経』こそが、女人成仏をかなえ、悲母〔産み育ててくれた慈悲深い母親〕の恩に報いる真実の報恩の経であると見ましたので、悲母の恩に報いるためにこの経の題目をすべての女性に唱えさせようと願いました。(『千日尼御前御返事』、弘安元年(1278)728)

 日蓮の言葉のとおり、真に女人成仏を実現させているのは、『法華経』のみだと思います。

 

(4)     女性に「聖人」という最高の称号

 文永9(12712)5月ごろ、日妙尼という女性この尼が幼い娘とともに鎌倉から信濃の山を越え荒波を渡り、はるばる佐渡の日蓮を訪ねてきました。この人は夫と早くに離別し、苦しい暮らしの中、女手一つで子を育てていました。

 教団全体が厳しい弾圧にさらされ、幕府の役人に呪まれたら、どんな目に遭うか分かりません。山路には山賊、海路には海賊が横行しています。そんな危険をものともせず、幼な子の手を引いて訪ねてきてくれたのです。

 日蓮は、日妙尼を「聖人」とまで称しました。「聖人」の号はとりわけ徳が高く、高潔な人格の教祖や高弟にしか用いられません。当時の他の宗教者ならば、貧しく、身分があるわけでもない寡婦にこんな称号を与えることはないでしよう。

 これは、人間の価値は生まれで決まるのではなく、その人の行いによって決まると説いた釈尊の教えをそのまま実行していることでもあります。目蓮は、実に言行一致の人でありました。

 

<出典>

植木雅俊(2022/2)、『日蓮の手紙』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)



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