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2022年2月13日日曜日

(2565) 『日蓮の手紙』(2-2) / 100分de名著

 【 読書 ・ 100de名著 】在家信徒に「四大檀越」と呼ばれる代表的な四家がありました。下総の富木常忍は千葉氏の、相模の四条金吾頼基は北条一族の江馬氏の、武蔵の池上宗仲と宗長の兄弟と駿河の南条次郎時光は得宗の、被官です。


第2回  14日放送/ 16日再放送

  タイトル: 厳しい現実を生き抜く

 

放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50

再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55

 及び        午後 00:00~00:25

 

 

【テキストの項目】

(1)      プロの弁護士さながら--富木常忍の場合

(2)      主君と信仰のはざまで--四条金吾の場合

(3)      「宮仕えを『法華経』と思ってください」

(4)      真実の恩を報ずること--池上兄弟の場合

(5)      自己との対決

 

 

【展開】

(1)      プロの弁護士さながら--富木常忍の場合

 この手紙には、ポイントが四つあります。

   もし法廷で顔見知りに出会っても、要らぬおしゃべりをしないこと。裁判の場に、争点と関係のない個人的な情報が入り込まないようにするためです。

   法廷では奉行人から尋ねられたこと以外は決して日にしないこと。たとえば訴状の読み上げの途中に反論したり、つられて余計なことを言ったりしないよう注意しています。

   敵方があおったり因縁をつけたりしてきても相手にならないこと。何度も繰り返すようなら、穏やかに対応して、こちらには何の遺恨もないことを告げること。

   これらを供まわりにも徹底させ、無用の喧嘩をさせないこと。

 実に的確、かつ具体的です。

 私の知人の弁護士にこの手紙の内容について話をしたら、自分たちが裁判のとき依頼人に注意することと同じような内容だと驚いていました。

 

(2)      主君と信仰のはざまで--四条金吾の場合

 貴殿は、ただ一口に言いきりなさい。「自分から主君の御内を出て、所領を返上するわけにはまいりません。〔しかし〕主君から召し上げられ、御内を出されることは、それは『法華経』に布施することであり、幸いなことだと思っております」と声高に言って下さい。くれぐれも奉行人に媚び諂うような素振りがあってはなりません。「この所領は、主君から頂いたのではありません。主君の重い病を『法華経』という妙薬によって助けたことで頂いた所領ですから、その所領を召し上げるならば、その病が再び戻ってくることになるでしょう。その時になって、頼基に詫び状を書かれても、受け入れることはないでしょう」と当てつけて、憎々しげに帰りなさい。あなかしこ、あなかしこ。(『四条金吾殿御返事』、建治3[1277]7)

 日蓮は、あまたの世間知らずの僧侶などとは違う″戦略家″であり、″名演出家″でもあると感じます。

 

(3)      「宮仕えを『法華経』と思ってください」

 … つまり、われわれが日常行っている仕事や活動は、仏の道に精進することに通じていると言うのです。これは他の経典とは一味違う、『法華経』の大きな特徴です。

 宮仕えを『法華経』と思ってください。『法華経』の「一切世間の日常の社会活動や、生産活動は皆、仏法の説く真実の理法(実相)と相反することはない」とあるのは、このことです。(『四条金吾殿御返事』、弘安元年[1278]411)

 ここで言う「官仕え」とは、主君に仕える毎日の務めのことです。あなたが主君に奉仕しているその行いを通して、『法華経』の説く世界が実現されるのです。この世を離れたどこかに理想の素晴らしい世界があるのではなく、あなたがいる、いま、この場所で、あなたの振る舞いを通してこそ、『法華経』の世界は実現されるのだと思いなさい――と説いているのです。

 

(4)      真実の恩を報ずること--池上兄弟の場合

 釈迦如来が太子であった時、父の浄飯王は…、太子が出家することを許されませんでした。…ついに親の心に背いて出家されました。一切のことは親に随うべきことではありますが、仏になる道は、親に随わないのが孝養の基本でありましょうか。《中略》真実の道に入るには、父母の心に随わず、家を出て仏になることが真実の恩を報ずることになるということです。世間の決まりでも、父母が謀反を起こす時には随わないのが孝養であると『孝経』という経書にあります。(『兄弟抄』、文永12年〔1275416)

 釈尊の話を例に挙げ、短期的に見れば親不孝に見えることでも、大局的に見れば親不孝ではない。それどころか、釈尊は最終的には一切衆生に恵みを垂れることになった。これぞまことの報恩であると強調します

 

(5)      自己との対決

 仏教をただの儀式、あるいはただ字面だけの学問の対象としてではなく、一人の人間として、時代や社会の偏見、価値観、先入観などとの葛藤と闘い、乗り越えるための生きた教えとして学ぶことが重要です。

 富木常忍も、四条金吾も、池上兄弟も、中世の封建社会の中で個の自覚をしました。いつの時代でも個を自覚するとき、社会の価値観との間に軋蝶が必ず生じます。しかし、日蓮は弟子たちにそれを乗り越えさせ、仏法の本当の意義を検証させました。それこそが「自己との対決」です。仏教は、一人ひとりに個の重さと尊さを目覚めさせてくれるものです。それが結果として他者の尊厳にも目を開かせ、他者とともに生きていける社会づくりに貢献することにもつながるのです。

 

<出典>

植木雅俊(2022/2)、『日蓮の手紙』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)



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