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(K1151) もう家に帰らないといけない(2) / 認知症の人の不可解な行動(16) <認知症>
http://kagayakiken.blogspot.com/2020/06/k1151-216.html
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底に流れるのは何か。大正琴、三味線、尺八など日本の楽器とともにマンドリン、ギターなど西洋の楽器や西洋音楽の魅力を自分のものとして取り入れ、独創性や音楽的探究心を絶えず追求した結果作られた古賀メロディ
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古賀政男の処女作は「影を慕いて」だ。作詞作曲のこの曲は、満州事変が勃発した昭和6年 (1931年)、藤山一郎が歌ってヒットし、作曲家古賀政男誕生のきっかけとなった。 … 60年後に森進一が歌っても古さを感じさせず、人の心を打つ。演歌歌手ばかりではない。映画俳優の石原裕次郎、勝新太郎、クラシックの藍川由美がウィーン・シンフォニックアンサンプルをバックに歌っても上手さ、表現に違いがあっても訴えるものがある。時代を超え、どの歌手が披露しても色あせないのは底に流れる何かがあるのだ。
古賀の作曲は、生涯に4,000以上に及んだが、「影を慕いて」、「酒は涙か溜息か」、「悲しい謡 酒」のようなしんみりしたものから「丘を越えて」、「青い背広で」、「東京ラブソディ」に代表される明るい歌、「二人は若い」「あゝそれなのに」のようなコミックソング、さらに軍国歌謡までその幅の広さは驚くばかりである。
コロンビアレコードと専属作曲家として契約、 … 東京音楽学校(現東京芸術大学)の学生増永丈夫の明瞭な歌声に目を付けた古賀は自分の曲を歌わせようとする。 … しかし、官立の音楽学校の学生が流行歌を歌うのは校則違反である。窮余の一策として芸名を藤山一郎として吹き込んだ「酒は涙か溜息か」は詩とメロディが不況の時代にマッチし、藤山の声を抑えて歌うクール唱法と相まって大ヒットとなった。
テイチクに移って映画主題歌「白い椿の唄」、「二人は若い」のヒットを飛ばす。 … 東京ラブソディ」として発売された軽快なフォックストロットは昭和モダンを謳歌する歌として大ヒットした。古賀・藤山コンビで、「男の純情」、「青い背広で」、ディック・ミネが歌った「人生の並木道」、美ち奴の「ああそれなのに」など古賀作品の相次ぐヒットによってテイチクは流行歌黄金時代のトップに立つことになる。
コロンビアに復帰。極めて日本的な「誰か故郷を思わざる」は兵士たちの間で愛唱され、日本に逆上陸しての大ヒットとなった。その後「新妻鏡」、「目ン無い千鳥」、「熱砂の誓い」など映画主題歌としてヒット曲を次々世に送った。
敗戦に打ちひしがれ、食糧はじめすべての物資が不足しその日の生活にも苦しむ日本国民の数少ない娯楽といえばラジオと映画であった。戦後の古賀は映画「三百六十五夜」の主題歌「恋の曼珠沙華」に始まり、「湯の町エレジー」が空前のブームを呼ぶことになった。その後、うぐいす芸者神楽坂はん子の「ゲイシャ・ワルツ」、「こんなベッピンみたことない」、島倉千代子の高く細い声を生かした「りんどう峠」、「あんなあくの強いのはだめだ」の反対を押し切ってラジオで聞いた浪曲師村田英雄をあえて起用して大ヒットに仕上げた「無法松の一生」、美空ひばりの魅力を生かした「悲しい酒」、「柔」など古賀の曲を最大限表現してくれる歌手が次々と生まれ、あるいは古賀自身が発掘していった。
「わたしの歌謡曲は歌詞が姉でメロディは妹」というように、古賀は佐藤惣之助、西條八十、サトウハチローなど優れた作詞家に恵まれた。
正式な音楽教育を受けたことのない古賀に対する専門家の批判があることは本人が十分自覚していた。しかし古賀は言い訳や反論は一切しなかった。「最後に判断してくれるのは大衆だ」とのゆるがぬ信念をもっていたからである。
古賀政男(1904~1978)
福岡県生まれ。明治大学に入学しマンドリン倶楽部創設に参加。日本コロンビアと専属契約し多数のヒット曲を生み出した。 郷愁と近代性をミックスした旋律は「古賀メロディ」として親しまれ、今も歌い継がれている。歌謡曲の大御所として日本作曲家協会を設立しレコード大賞制定に尽力した。没後国民栄誉賞を贈られた。
<出典>
池井優、『あの頃日本人は輝いていた』(芙蓉書房出版)
写真は、
ビッグショー/古賀政男 33,944 回視聴•2019/09/19
https://www.youtube.com/watch?v=uwoQq2gFD1g
動画あり。
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