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2020年6月13日土曜日

(1999)  カント『純粋理性批判』(3-2) / 100分de名著


◆ 最新投稿情報
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(K1140)  死は、希望なのか、絶望なのか(1) / 自立期と仕上期との間にて(6) <自立期~仕上期>
http://kagayakiken.blogspot.com/2020/06/k1140-16.html
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神や魂の不死はどうでもよくなるかというと、そうではない。「神がいる/いない」ということは理論的には決定できないが、「よく生きる」ためには神や魂の不死を信じることが必要だ、という議論をカントはしている
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第3回  15日放送/ 17日再放送
  タイトル: 宇宙は無限か、有限か

放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55
 及び        午後 00:00~00:25

【テキストの項目】
(1)  「究極真理」の探究に終止符を打つ
(2)   理性はときに暴走する
(3)   私たちの魂は死後も生き続けるか?
(4)   宇宙に始まりはあるのか?
(5)   答えの出ないアンチノミー
(6)   なぜアンチノミーが生まれるのか

(7)   理性がもつ二つの「関心」
(8)   人間に自由はあるのか?
(9)   神は存在するのか?
(10) 理性は「理念」を思い描く
(11) カントが考えた哲学再生の秘策

【展開】
(1)  「究極真理」の探究に終止符を打つ
(2)   理性はときに暴走する
(3)   私たちの魂は死後も生き続けるか?
(4)   宇宙に始まりはあるのか?
(5)   答えの出ないアンチノミー
(6)   なぜアンチノミーが生まれるのか
以上は、既に書きました。

(7)   理性がもつ二つの「関心」
 ところで、答えの出ない「世界全体」について、なぜ人間は知ろうとするのでしようか。そして限界が「ある」とか「ない」とか結論づけたがるのでしようか。そのことをカントは、理性の「関心」によって説明しようとします。
 理性の働きは推論をすることです。しかも、推論に推論を重ね、際限のないところまで行こうとする。そのとき、理性には2つの関心があるとカントはいいます。
 理性のもつ関心には、「全体を知って安心したい」と「もっともっと問い続けたい」という2つの側面があります。前者から有限説か、後者から無限説が生まれます。

(8)   人間に自由はあるのか?
●3つ目のアンチノミー●「人間に自由はあるのか、それともすべては自然の法則で決定されているのか」
 この世界には物事が系列的に起こってきます。Aが起こると、それが原因となって次にBが起こり、さらにそれが原因となってCが生じ…と続いていきます(ここには「因果律の原則」が働いています)
 そのさい、「この系列はすべて自然の法則によって決定されているのではなく、自由意志によってこの系列を新たに始めることができる」と考えるのが正の主張です。これに対し、「そんなことはない。 すべては自然の諸法則によって決められている」とするのが反の主張となります。
 カントは、「人間に自由はある」と「自由などない」の二つがともに成り立つ、といいます。

(9)   神は存在するのか?
●4つ目のアンチノミー●「世界には、いかなる制約も受けないものが存在するのか否か」
 あらゆる事柄についてその成立条件をたどっていくと、最終的には、何ものにも条件づけられない、必然的に存在するもの()があるはすだ、と考える立場が出てきます。
 このように、「端的に必然的な存在者」を認める立場(正命題)に対し、そのようなものの存在を認めない立場(反命題)も出てきます。
 「神の存在」についても、どんなに議論しても証明不可能だとカントは結論づけています

(10) 理性は「理念」を思い描く
●これまでの四つのアンチノミーの議論のまとめ●
 カントは、第一・第二のアンチノミーは正・反どちらも「成り立たない」と論証し、第三・第四のアンチノミーは正・反どちらも「成り立つ」と結論づけています。前者は空間・時間や物質といった同種のものの系列を論じ、後者は原因と結果のように異質な系列を論じている点で、質の異なるアンチノミーといえます
 ただし、どのアンチノミーも、合理的に共有可能な答えは出ないという点では共通です。なぜなら、いずれの問いも、人間が認識することのできる現象界を超えた対象を、勝手な想像で議論しているからです。
 理性は推論に推論を重ね、究極的に無条件なもの(究極の真理)に至ろうとする性質をもっています。この「究極的な完全なもの」として、理性が思い描くものを「理念(イデー)」と呼びます。 … しかし、四つのアンチノミーが示したとおり、理念は経験(空間・時間)を超え出ていますから、それについて正しい答えを導くことはできません

(11) カントが考えた哲学再生の秘策
 原始仏典のなかの「毒矢のたとえ」と呼ばれるエピソード
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 ブッダ日く、いままさに毒矢が刺さって苦しんでいる人がそんな問題を考えるだろうか、そんなことを考えていたら死んでしまう、と。人間にとって大事なのは、その毒矢、つまり煩悩(ぼんのう)による苦しみを解決することであり、宇宙の果てがどうなっているかということや、死後も魂が生き続けるかどうかなんて、どうでもいいことだというのです
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 実は、カントもブッダとよく似た考えです。答えの出ない間いは捨て置げばよい、大事なごとは「よぐ生きる」ことだといって、道徳の問題のほうに哲学の軸足を移そうとしました。


<出典>
西研(2020/6)、カント『純粋理性批判』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)


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