考えて、考えて、考え疲れて、考えられなくなって。
「本当」が観えるのは、それからだ。そこに考えはない。
「本当」は、「考え」から観えず、「考えない」からも観えず、
「考えのむこう」から観える。
しかし、「考えのむこう」なら観える、というものでもない。
あと一つ、必要なものがある。
詩人 谷川俊太郎から言葉を借りれば、
「陽炎(カゲロウ)のようなゆらめときめき」
ではないか。
考え抜いて疲れたとき、
「陽炎(カゲロウ)のようなゆらめときめき」を感じ取りやすくなる。
ただし、考え抜いて疲れたとしても、それだけでは感じ取れない。
さらに一つ必要なのは、
「本当」を知りたいという、渇きだと思う。
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以上は、私の言葉。以下は、引用
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陽炎
谷川俊太郎
柔毛(ニコゲ)のようにけぶる春の木々に眼を憩わせ
空へとつづく地の静もりに耳を溶かし
陽にあたためられたせせらぎから匂い立つ
かすかななまぐささにおのが息をまぜ
私の感じたほどのことはもうすでに
数限りない人々が感じとってきたこと
私の考えたほどのことはもうすでに
数千年前の誰かが考えていたこと
けれどその珍しくもない束の間の
誰でもないこの私のこころとからだの
陽炎のようなゆらめきときめき
歓びの次に怖れが怖れの次に執着が
だがそのように名づけるそばから崩れてゆく
刻々にくり返す波として私は生きている
明日を知らないこのからだも
今日ならたしかに知っているのだ
子らの歌う素朴な調べにもかくれている
昔ながらの至福なら
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