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2025年4月28日月曜日

(2645)「本当」が観える

考えて、考えて、考え疲れて、考えられなくなって。

「本当」が観えるのは、それからだ。そこに考えはない。

 

「本当」は、「考え」から観えず、「考えない」からも観えず、

「考えのむこう」から観える。

しかし、「考えのむこう」なら観える、というものでもない。

 

あと一つ、必要なものがある。

詩人 谷川俊太郎から言葉を借りれば、

「陽炎(カゲロウ)のようなゆらめときめき」

ではないか。

 

考え抜いて疲れたとき、

「陽炎(カゲロウ)のようなゆらめときめき」を感じ取りやすくなる。

ただし、考え抜いて疲れたとしても、それだけでは感じ取れない。

 

さらに一つ必要なのは、

「本当」を知りたいという、渇きだと思う。

 

=====

以上は、私の言葉。以下は、引用

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 陽炎

     谷川俊太郎

柔毛(ニコゲ)のようにけぶる春の木々に眼を憩わせ

空へとつづく地の静もりに耳を溶かし

陽にあたためられたせせらぎから匂い立つ

かすかななまぐささにおのが息をまぜ

私の感じたほどのことはもうすでに

数限りない人々が感じとってきたこと

私の考えたほどのことはもうすでに

数千年前の誰かが考えていたこと

けれどその珍しくもない束の間の

誰でもないこの私のこころとからだの

陽炎のようなゆらめきときめき

歓びの次に怖れが怖れの次に執着が

だがそのように名づけるそばから崩れてゆく

刻々にくり返す波として私は生きている

明日を知らないこのからだも

今日ならたしかに知っているのだ

子らの歌う素朴な調べにもかくれている

昔ながらの至福なら



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