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2025年1月16日木曜日

(2630) 熱の出ない風邪(治りかけています)

コロナやインフルエンザではないようです


喉がムズムズして、咳が止まりませんでした
前半は、目やにが出て、鼻水は出ませんでした
後半は、目やにが止まり、鼻水が出ました

風邪のせいで目やにや鼻水が出て嫌だな、
と思っていたのですが、
思いなおしました

悪い黴菌君が入ってきて、
「からださん」が戦ってくれています
目やにや鼻水の形で、
「からださん」が黴菌君を外に押し出しています

そうイメージすると、
鼻水をかむたびに、目やにをとるたびに、
自分の体が浄化されているようで、
明るい気持ちになってきました

痰がでるのも、咳が出るのも、
同じかなと思っています

でも、咳がでて、喉が痛くなり、
鼻水をかんで、鼻が痛くなっています
痛くなるのは、やっぱり、嫌です

2025年1月13日月曜日

(2629) 裸足で廊下を歩く

普段、畳の部屋で裸足で過ごしています。

空調をいれているので、寒くはありません。

でも、トイレに行くときの廊下が冷たいです。


嫌だなと思っていたのですが、ふと気づきました。

これって気持ちいいな。


足の裏全体でしっかり床を踏みしめ、

冷たい廊下直にに触れ、

ゆっくり歩いて、冷たさを楽しんでいます。


でも、近いトイレの時だけで、

長時間になるときは、靴下をはいています。

温かい足だからこそ、冷たさが快い。


2025年1月1日水曜日

(2628) 7転び8起き

 私は、会社を辞めて、

給料はもらわず(若干の有償ボランティアはしている)、

自ら稼ぐこともなく、でも、活動はしている。

 

 活動をしていて、うまくいかないこともあり、12月には大きく落ち込んだ。

でも、2~3日後には、元気を取り戻していた。

 

 うまくいかなかった理由を考えていると、

次々に、自分の失敗、その原因が分かってきて、元気になってきた。

「よし、今度は失敗しないぞ」。一歩ずつ、賢くなっていく自分がいる。

 

7回も転んだ幸せ、かみしめる

8回起きる、チャンス貰った

 

 私は過去のことはあまり考えないし、

過去について他人に語ることは少ない。

 

 記憶としては、7回転んだことは忘れ7回起きたことは覚えている。

(1回目は、生まれて初めて立った時なので、覚えていない)

だから、過去をふりかえると、「幸せだったな」と思う。

転んだ経験は、教訓として加工して、次に進んだ。

 

教訓だけは、しっかり覚えている。

ただ、囚われないように注意している。

うっかりすると、自ら学んだことに囚われてしまうことがある。

 

 私は、過去について他人に語ることは少ない。

青年は、未来を語り、

中年は、現在を語り、

老人は、過去を語る。

 

 齢をとったというだけではなく、本当の意味での老人が、

私の周りにたくさんいる。

私は、未だ、気持ちだけ(残念ながら「だけ」)は、若い。

 

 因みに、「数の七には、「千(多い)」という意味があり、八は末広がりで「幸福」という意味があります。」だそうです。

https://www.sukiwa.net/otsu/otsubbs/news/2009/030801/index.html#:~:text=%E4%BD%95%E5%BA%A6%E3%82%82%E8%BB%A2%E3%82%93%E3%81%A0,%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E3%80%8D%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E6%84%8F%E5%91%B3%E3%81%8C%E3%81%82%E3%82%8A%E3%81%BE%E3%81%99%E3%80%82

2024年12月31日火曜日

(2627)「個人主義」が怪しい

 3つの「怪しい」3部作を書いてきました。

(2624)「権利」が怪しい

(2625)「多様性」が怪しい

(2626)「誰一人取り残さない」が怪しい

 本編は、「怪しい」3部作+(プラス)になります。

 

 3つの『怪しい』を書いてきましたが、どれも言葉自体には問題ありません。「権利を大切にしましょう」「多様性を大切にしましょう」「誰一人取り残さないが良いですね」という言葉は否定すべきではないでしょう。尊重しましょう。しかし、尊重した結果、社会が崩壊に向かっています。何故でしょうか。

 本来好ましい概念であるはずなのに、「権利」「多様性」「誰人に取り残さない」と声高に叫んでいる人の中には攻撃的な人が多く、他者の「権利」「多様性」を無視し、少数者を取り残さないという名目で多数者を圧迫することがあります。それが現実です。3つのそのバックボーンは同じではないかと気になりました。その「同じハックボーン」は、「個人主義」だと思いました。

 

 「権利」だけなら良いのだが、「権利」と「個人主義」がくっつくと変になります。「多様性」も「誰一人取り残さない」も同じです。

 「全体主義は、個人主義の対義語で、個人の自由を認めず、個人の生活や思想は、組織全体、国であれば国家全体の利害と一致するよう統制されなければならないと考える思想です。この思想に基づく政治体制が全体主義国家です。」

https://www.env-simulation.com/jp/senyaitiya/index_45.html#:~:text=%E5%85%A8%E4%BD%93%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E3%81%AF%E3%80%81%E5%80%8B%E4%BA%BA%E4%B8%BB%E7%BE%A9,%E3%81%8C%E5%85%A8%E4%BD%93%E4%B8%BB%E7%BE%A9%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%A7%E3%81%99%E3%80%82

 「個人主義」が「全体主義」を否定するのは、問題ないと思います。間違いは、「全体主義」を否定するのではなく、「集団主義」を否定するからです。だから、おかしくなるのです。

 集団主義とは「個人と集団の関係において,個人は集団と心理的な一体感をもつとともに集団の目標や利害を自分のものよりも優先させていくという集団中心の考え方。」

https://kotobank.jp/word/%E9%9B%86%E5%9B%A3%E4%B8%BB%E7%BE%A9-77196#:~:text=%E5%80%8B%E4%BA%BA%E3%81%A8%E9%9B%86%E5%9B%A3%E3%81%AE%E9%96%A2%E4%BF%82,%E3%81%A8%E3%81%84%E3%81%86%E9%9B%86%E5%9B%A3%E4%B8%AD%E5%BF%83%E3%81%AE%E8%80%83%E3%81%88%E6%96%B9%E3%80%82

 

 「個人主義」と「集団主義」とは相反する方向を向いていますが、どちらか一方のみが正しいとするのは間違いです。相反する方向の中で、いかに調和するかが大切です。

 「集団主義が正しいのだから個人主義を否定すべきだ」という考え方では、とても生きにくい社会になってしまいます。一方、「個人主義が正しいのだから集団主義を否定すべきだ」という考え方では社会が成り立ちません。他者の権利を否定してしまうからです。その結果、個人主義が個人主義にとどまらず、利己主義(エゴイズム)に堕ちてしまっています。

 

 利己主義(エゴイズム)を排除すれば、「権利」も、「多様性」も、「誰一人取り残さない」も、「個人主義」も、『怪しくなくなります』 

2024年12月27日金曜日

(2626)「誰一人取り残さない」が怪しい

3つの「怪しい」3部作です。

(2624)「権利」が怪しい …………………… 前々回

(2625)「多様性」が怪しい ………………… 前回

(2626)「誰一人取り残さない」が怪しい … 今回

 

 理念としての「誰一人取り残さない」は美しいが、徹底的に現実に当てはめようとすると、社会が成り立たなくなる。

 一人を取り残さないために、他の何人もが損害を受ける。困っている人だけを見ていると、判断を間違える。全体を見て、最適解を探す(言い換えると、妥協する)必要がある。

 「この人が取り残されてしまう」と口々に叫ばれても、ほんの一部しか解決できない。それで文句を言われるのは、たまらない。

 「誰一人取り残さない」ためには、税金をいくら重くしても、追いつけない。一人一人の不便を解決するごとに税金は増え(その「一人」がやたら多い)、結局は、無制限に税金が増えていく。

 「誰一人取り残さない」と主張する人と、「税金を下げよ」と主張する人は、結構、重なっているようだ。「政府がやるべきだ」と言う。しかし、政府がやるためにはお金が必要であり、税金を上げざるを得なくなる。自らの高い税金を支払う覚悟なく、税金は(自分ではない)あっちから取れ、こっちから取れと言う人が多いが、無責任である。

 「誰一人取り残さない」に、無条件には賛成できない。

 

★★★

 

 車椅子では移動が難しい。平成18年「高齢者、障害者等の移動等の円滑化の促進に関する法律」等でかなり改善なされたが、「誰一人取り残さない」には至っていない。

 完全実践しようとすると、例えば「すべての階段に車椅子用昇降機やエレベーターを設置せよ」ということになる。大きな問題が3つある。

(1)とてつもない費用がかかる。誰が負担するのか、負担できるのか。そのための増税に国民は賛成してくれるのか。私道や民間敷地内では公金は使えないから、原則自腹になる。利益の上がらないところに投資しても回収できない。補助金をつけないと難しいだろうが、その財源をどうするのか

(2)昇降機をつけると普通の通路が狭くなる。人通りの多いところでは渋滞が起こる。そこまでいかなくても、「誰一人」のために大勢の人が不利益を受ける。大勢の人がいたら、利害は相反するものとなる。

(3)そもそも物理的に設置不可能なところもある。どうするのか

 こう考えると、行き詰ってしまう。

 

 階段で車椅子の人が困っていると、海外では通りがかりの(面識のない)人4人ぐらいが即席チームを作って車いすごと抱え上げて助けてくれるが、日本ではめったに起こらないと言う。いささか海外を美化しすぎているのではないかと感じるが、ここにヒントがある。

 「ハード」(設備)を充実することも大切だが、本来は「ハート」(通常は「ソフト」という)が中心なのではないか。困っている人がいると、近くの人が自発的に助けようとする「ハート(心)」が醸成されていくことこそが、「誰一人取り残さない」精神の神髄ではないか。

 自ら「優しいハート(心)」を抱いて身をもって支援を実践することなく、「ハード」の要求ばかりするのは、それはそれで意味あることだが、どうかと思ってしまう。

 

 遠い先の、「誰一人取り残さない」の世界を夢見てみた。

 誰もが誰にも優しい。困っている人を見かけたら、暖かく見守り、必要なら手を差し伸べる。

 「あれ、貴方、立派なことは言うけれど、自分の手も足も動かないね。優しい言葉もかけないね。ただ一人、取り残されているのは、貴方」。 

2024年12月26日木曜日

(2625)「多様性」が怪しい

3つの「怪しい」3部作です。

(2624)「権利」が怪しい …………………… 前回

(2625)「多様性」が怪しい ………………… 今回

(2626)「誰一人取り残さない」が怪しい … 次回

 

 多様性を主張する人は、「多様性に反する」という理屈のもとに、自分たちと異なる考え方を攻撃する。その攻撃は、多様性とは正反対の行為である。

 良いものも、悪いものも、すべてひっくるめて認めよというのが「多様性」である。自分が良いと思うものを他者が悪いと思い、他者が良いと思うものを自分は悪いと思う、それが頻繁に起こるのが、多様性社会である。

 自らの考えに反対する意見を「多様性を認めない」という理由で封印しようとする、そのような「多様性信仰」を破棄しない限り、まっとうな議論ができない。

 

 好ましい多様性と、好ましくない多様性がある。

 現実は、多様性を主張している人たちが、多くの多様な文化、多様な考え方を抹殺している。西欧基準に合わない異国のものは、次々、排除されている。彼らは(実はグローバルでない)「グローバルスタンダード」を盛んに押し付けようとする。何故日本人は、日本を否定するような「グローバルスタンダード」を無批判に受け入れようとするのだろうか。「先進的西欧」の仲間に入りたいからだろうか。

 彼らは、多様性の言葉と裏腹に、(自分たちの価値観に基づき)画一的世界を築こうとしている。他の価値観を認めようとしない。

 

 多様性を唱えるなら、自らの考えに反する意見も「多様に」承認(黙認)しなければならないが、できる人は少ない。異なる意見を承認(黙認)するのが嫌なら、「多様性」という言葉は使わないのがよい。

 

★★★

 

 「LGBTQ+」=「多様性」ではない。この2つは、別の次元の話である。

 LGBTQ+活動の多くは、実際は、多様性を否定している。LGBTQ+を好ましいと考える人も、LGBTQ+を好ましくないと考える人も、現実として存在する。その両方を受け容れるのが多様性である。反LGBTQ+の人を、反多様性だという利用で排除しようとするのは、間違いである。

 

 LGBTQ+を好ましくないと考える人も、LGBTQ+を好ましいと考える人の存在は認めよう。存在は認めるが、LGBTQ+に関する権利を拡大したり、世の中をLGBTQ+色に染めようとしたり、子息をLGBTQ+に誘い込もうとしたり、そのような動きに断固反対するのは、理解できる。

 LGBTQ+を好ましいと考える人も、LGBTQ+を好ましくないと考える人の存在は認めよう。存在は認めるが、LGBTQ+に関する権利を拡大したり、世の中をLGBTQ+色に染めようとしたり、他者の子息をLGBTQ+に誘い込もうとしたり、そのような動きをするのは、理解できる。

 

 どちらが正しいと決めつけてはいけない。自分の意見は主張するのは良いが、相手を根こそぎ抹殺しようとしてはいけない。多様性の名の下に、多くの人が非難され、排除されている。

 

 多様性を維持するのは、極めて難しく、関わる誰にとっても苦渋に満ちたものとなる。それでもなお、多様性は本来、良いものだと思う。閉ざされた世界でない限り、統一した価値観は存在せず、価値観の異なる人と折り合っていかねばならない。互いに、我慢が必要であり、妥協が必要であり、その上で折り合うべく努力する。これが多様性を重んじる社会だと思う。 

2024年12月25日水曜日

(2624)「権利」が怪しい

3つの「怪しい」3部作です。

(2624)「権利」が怪しい …………………… 今回

(2625)「多様性」が怪しい ………………… 次回

(2626)「誰一人取り残さない」が怪しい … 次々回

 

権利を、無条件に与えてはならない

 

(1)義務を負わない者に、権利を無条件に与えてはならない

 義務を守る者の権利を尊重せねばならない

(2)他者の権利を侵害する権利を、無条件に与えてはならない

 権利の行使により他者の権利を侵害せぬよう、配慮せねばならない

(3)権利を与える条件を、誰かが勝手に決めてはならない

 上記(1)(2)において、例外を認めるのは慎重にしなければならない。すべての利害関係者を集め合意が必要である。ただし、全員の合意は、現実には無理である。たくさんの妥協の上に合意がある。

 

 ほとんどすべての権利の行使は、他者の権利を侵害する。

 他者の権利を無視して、自分の権利ばかりを主張する人が多い。そのような自分勝手な権利は、認めてはならない。「私には権利がある」は、無条件には認められない。

 無条件に認めるべき権利があるとするなら、それは何だろうか?

 

★★★

 

 「人は生きていく権利がある」というのは、ほとんどの人が認める権利だろう。「私の生きる権利を行使するため、他者を殺しても良い」というのは、ほとんどの人が認めない権利だろう。

 「他者を殺してはいけない」という条件のもとに、「人は生きていく権利がある」という主張が正当化される。

 一般論として、その権利の行使に当たってどのような条件をつけるか(必ずしも一つではない)について合意できたとき、初めてその権利は正当化される。

 全ての権利の行使には、「義務を守る」と「他者の権利を侵害しない」という条件がつく。権利を行使するときは、そのことを自覚せねばならない。

 

 現実は、「義務を守る」と「他者の権利を侵害しない」という条件が整わないまま、権利が行使される、おかしな世の中になっている。他者の権利をないがしろにして、自らの権利ばかりを主張する人が多い。