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(K1209) 個人Blog 8月中旬リスト <サイト紹介>
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長嶋が学生時代から注目され、美空ひばりが天才少女歌手として早くからスターへの途が用意されていた。裕次郎が大スターになったのは偶然のきっかけだった。なりたくてなったのでも、期待されてなったのでもない
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(1) 百年に一度の大スター
(2) 映画スター裕次郎
(3) 裕次郎の反抗
(4) 映画からテレビの世界へ
(5) 石原裕次郎の遺産
<展開>
(1) 百年に一度の大スター
長嶋茂雄、石原裕次郎、美空ひばり、この3人は100年か200年に一人しかでないスターだ。
水の江多滝子(ターキー)は「太陽の季節」で石原裕次郎を抜擢したかったが、反対され、アルバイトで参加させた。だが、スタンドインを務めた裕次郎を、カメラを通してのぞいていたベテランカメラマンはいった。「ファインダーの向こうに阪妻がいる。」ターキーはただちに、シナリオにボクシング部の学生役を付け加え、端役で登場されることにした。これをアップにして棒焼きにし、幹部に見せ、本格的デビューにつなげることに成功したのだ。こうして兄慎太郎の脚本、裕次郎主演の「狂った果実」が制作されることになった。
(2) 映画スター裕次郎
映画俳優としての裕次郎を目覚めさせてくれたのは、名匠田坂具隆であった。石坂洋次郎原作の「乳母車」を映画化するに当たり、ヒロインの父の愛人の弟という複雑な家庭環境で育ちながら、明るさや素直さを失わない青年の役を上手く引き出し、文芸作品に仕上げたのだった。その後も「日のあたる坂道」の映画化など秀作を生むことになった。
だが、なんといっても裕次郎を国民的スターに押し上げたのは「嵐を呼ぶ男」(昭和32年)であった。観客動員は594万人、配給収入は3億4880万円を記録、この映画の大ヒットによって赤字だった日活は一気に黒字に転じた。この年、映画主題歌「俺は待ってるぜ」は160万枚を売り上げ、テイチクレコードにとってもドル箱の″歌手″となった。「裕次郎ブーム」が到来した。
(3) 裕次郎の反抗
長身で長い脚、ちょっとグレていて喧嘩には強いが根は純情でカッコいい快男児のイメージが定着し、日活は裕次郎の作品をこの路線で作りつづけた。連日の撮影やレコーディングで、心身ともに疲れ果てていた裕次郎は、北原三枝とアメリカへ逃避行し、結婚を認めさせた。幸い、結婚しても裕次郎人気は落ちなかった。北原三枝に代わって浅丘ルリ子、芦川いずみとコンビを組んだ。
しかし、スキーで骨折し、全治8カ月の重傷を負った。入院中にじっくり考え「自分で映画を作れないか」との気持ちが強くなっていく。そして旗揚げしたのが石原プロモーションであった。「太平洋ひとりぼっち」がヒットし、三船プロとの合作「黒部の太陽」を企画した。「五社の映画館では絶対に上映させない」と圧力がかかったが「フィルムは、映画館じゃなくても上映できるんだろう?」と応援されて、クランクイン。空前のスケールと迫力で公開されると観客動員数は733万7000人を記録した。
本格的カーレース「栄光への500キロ」(昭和44年公開)はヒットしたが、「ある兵士の賭け」では5億8000万円もの負債を抱える羽目になった。
(4) 映画からテレビの世界へ
石原プロがテレビに進出したのは、映画の斜陽に加え、膨らむ一方のテレビの持つ可能性に挑戦する意図があった。裕次郎が出演した刑事ドラマ「太陽にほえろ!」は、なんと全817話、10年も付き合うことになった。
「太陽にほえろ!」が大好評だったため、次の刑事ドラマ「大都会」、「西部警察」は石原プ口が制作することになった。
(5) 石原裕次郎の遺産
映画館を出るとすっかりその気分になり、自分の短足も忘れて裕次郎ばりの右足をちょっと引きずりながら「俺は待ってるぜ」を口ずさんだ世代、裕次郎気分で「銀座の恋の物語」をスナックのおねえちゃんとデュエットしたおっさん、わが身を北原三枝や浅丘ルリ子に置き換えて裕次郎と映画館で恋をしたオバちゃん、「太陽にほえろ!」のボスを思い出す五十代のひとびと…裕次郎を待っているファンはまだ全国にいる。
石原裕次郎(1934
- 1987)
兵庫県生まれ。慶應義塾大学在学中に芥川賞作家の兄石原慎太郎の小説を映画化した「太陽の季節」でデビュー。「狂った果実」「嵐を呼ぶ男」などで大スターとなる。余技で歌った映画の主題歌、挿入歌が「俺は待ってるぜ」「銀座の恋の物語」をはじめ多くのヒット曲を生んだ。「太陽にほえろ!」・「西部警察」などのテレビドラマでも人気を博した。
<出典>
池井優、『あの頃日本人は輝いていた』(芙蓉書房出版)
写真は、
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