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2020年7月24日金曜日

(2037)  吉本隆明『共同幻想論』(4-1) / 100分de名著


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国とは何か。共同幻想である。その共同幻想に対抗できるのは何か。個人幻想である。その個人幻想とは何か。ニーチェにとっての「貴族道徳」がそれに当たる。しかし、「貴族道徳」=吉本の「個人幻想」ではない
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第4回  27日放送/ 29日再放送
  タイトル: 「個人幻想」とはなにか--人間関係の相対化の方法

【テキストの項目】
(1)  「個人幻想」は「共同幻想」に逆立する
(2)   芥川龍之介の自殺
(3)   共同幻想に対応できる個人幻想はあるのか
(4)  「自立」と「沈黙の有意味性」

(5)   漱石作品の中に見た「大衆の原像」
(6)   ことばによる抗い
(7)   現代に生かすために


【展開】
(1)  「個人幻想」は「共同幻想」に逆立する
 最終回では、共同幻想を「幻想」として相対化するための手がかりを探るべく、「個人幻想」に焦点を当てて考察します。
 理念的に言えば、共同体と個人には緊張関係が存在している(逆立)はずである。しかし、共同幻想にたいし私たちは冷静ではいられない。嫉妬や生死にまつわる複雑な感情をもって国家を抱きしめたり、突き放したり埋没したりしている。

(2)   芥川龍之介の自殺
 出身階級にも小説家として所属する高尚な社会にも、自分の居場所を見出せないのです。この二重の自己嫌悪が芥川を蝕み、精神の消耗を強いて、自死へと追い込んでいった。

(3)   共同幻想に対応できる個人幻想はあるのか
  芥川は都市下層庶民の共同幻想にも、知識人の共同幻想にも所属できませんでした。どこにも居場所をもたない芥川は、自死という方法でしか共同幻想から離脱し、相対化することができなかった
  母胎に保護された常民の生活からは、逆立のきっかけを見出せない
  恐らくニーチェにとっての「貴族道徳」こそ、吉本の個人幻想に該当する
  共産主義の団結もまた共同幻想がもつ危険性から逃れることができない

(4)  「自立」と「沈黙の有意味性」
 吉本は彼ら大衆に可能性を感じます。日々生きていると、あらゆる現実的な課題が否応なしに降ってきます。本人が好むと好まざるとを問わず、人間が生活している限り、次々に襲いくる諸事に一つひとつ対応する大衆の姿に、吉本は「自立」の思想的拠点を見いだしました。個人幻想のモデルを探りだそうとしたのです。
 生活者は普段から、知識人のように声高に政治的意見をまくし立て、激しく国家を論じることはない、日々の生活と労働を黙々とこなし、人ひとりなすべきことをやっています。自分の生活リズムを決して手放さない、この不器用さを「沈黙」と名づけよう。 … 知識人の誘導によって政治問題に駆り立てられ、走りだすのではなく、生活が乱されるから政治に注目するのだ。こうした態度を「沁黙の有意味性」と呼ぶことにしよう。

以下は、後に書く
(5)   漱石作品の中に見た「大衆の原像」
(6)   ことばによる抗い
(7)   現代に生かすために

<出典>
山崎彰容(2020/7)、吉本隆明『共同幻想論』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)




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