2020年7月31日金曜日

(2047)  無駄なことの中の面白さ(谷川 俊太郎・和田 誠 絵本「あな」)



◆ 最新投稿情報
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(K1188)  賃貸契約・入院・入所拒否 / 漂流する「高齢おひとりさま」(1) <高齢者独居>
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☆☆
仕事の領域のルールが、そうでない領域に入り込む。仕事の領域では、合理性を求められ成功を求められる。「そんなことをして何になる?」ということはなかなかできない。何の役にも立たないことができるのは贅沢だ
☆☆

===== 引用はじめ
 日曜日の朝、何もすることがなかったので、ひろしはあなを掘り始めました。
おかあさんが来て、妹のゆきこが来て、となりのしゅうじくんが来て、おとうさんが来ました。
ひろしは深く、深くあなを掘り続けました。
あなの中に座り込むと、静かで、土はいいにおいがしました。
「これは ぼくのあなだ。」
と、ひろしは思いました。
みんなが来ましたが、ひろしはあなの中に座っていました。
上を見上げると、空はいつもよりももっと青く、高く思えました。その空を、一匹の蝶がひらひらと横切っていきます・・・。
===== 引用おわり


===== 引用はじめ
 大人は「何のために?」と、行為の意図や目的を探しますが、子供はただそこに砂があるから関わっていく。砂と対話しながら挑んでいく。それが遊びです。大人から見るとよく分からない、答えのない無駄なことの中に面白さがあふれているのでしよう。
 そして、子供時代に、時を忘れて夢中になる、そんな経験を積み重ねてきた人が、やがて物事に意味を見いだし、何かを創り出す人になっていくのではないでしようか。
===== 引用おわり
国立音楽大教授・同付属幼稚園長 林浩子
無駄なことの中の面白さ
【子どもとともに絵本を味わう】 産経新聞(2020/07/31)

<元本>
あな 絵本
作: 谷川 俊太郎
絵: 和田 誠
出版社: 福音館書店



(2046)  ミヒャエル・テンデ『モモ』(1-1) / 100分de名著



◆ 最新投稿情報
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(K1187)  なぜ人の悪口を言う人は、死亡リスクがたかいのか(0) <長寿>
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☆☆
モモの見かけはたしかにいささか異様で、清潔と身だしなみをおもんずる人なら、まゆをひそめかねませんでした。背がひくく、かなりやせっぽちで、8つぐらいなのか、12ぐらいになるのか、けんとうもつきません
☆☆


第1回  3日放送/ 5日再放送
  タイトル: モモは心の中にいる!


【テキストの項目】
(1)   ドイツ・イタリア・日本
(2)  「むかし、むかし」が意味すること
(3)   円形劇場とモモ
(4)   相手の話を聞くということ
(5)   なぜモモは話が聞けたのか

(6)   大きな物語と小さな物語
(7)   ベッポとジジ
(8)   いにしえの時を知るベッポ
(9)   完璧な三人と、四つ目の異物
(10)人に何かを話すということ


【展開】
(1)  ドイツ・イタリア・日本
 『モモ』の作者ミヒャエル・エンデは1929年、ドイツ南部のガルミッシュという町に生まれました。
 エンデは1971年にイダリアに移住し、以後15年を当地で過ごしました。『モモ』を執筆したのもイタリアです。
 エンデは日本への関心も高く、のちに何度も来日しています。 … 彼の書いたものが日本で人気となる理由は、エンデの中にある両極の価値――時間と非時間、近代と前近代――が日本にも根づいているからだと思います。

(2)  「むかし、むかし」が意味すること
 昔話は、決して起こったことがないけれども、常に存在しているリアリディを持った物語なのです。だからこそ昔話はいつ読んでもおもしろいのです。
 ところが『モモ』は違うわけです。「はるかむかしのことです」といっている。なぜかというと、このあとで「そして今は」と話が続くからです。つまり、最初の「むかし」は現在とはっきり区別された時代なのです。なぜ区別されているのかというと、この物語ではいにしえの時と現在が対比されているからです。

(3)   円形劇場とモモ
 誰かが円形劇場の廃墟に住み着いたらしい、そんな噂が町の人たちのあいだに広がりました。どうやらそれは小さな女の子で、なんだか奇妙な格好をしているようです。 … 親が誰かもわからず、たった一人でこの町にやってきたモモ。彼女はいわゆるストレンジャー、日本でいえばまれびど(客人、来訪神)にあたります。まれびとは聖者であると同時に乞食でもある存在です。
 そんなモモの登場は何を象徴しているのか。それは、前置きのところで過ぎ去ったとされていた、いにしえの時の復活でしよう。今は消え去ってしまった豊かな時間、生き生きとした物語を知っている者として、彼女は現在にやってくるのです。

(4)   相手の話を聞くということ
 モモは町の人たちの好意で円形劇場跡の部屋を住みやすく整えてもらい、食べ物を分けてもらいながら、そこで暮らし始めました。町のみんなはモモを援助しているのに、次第にモモは「みんなにとって、なくてはならない存在」になりました。いったいなぜでしようか。
 モモに話を聞いてもらっていると、ばかな人にもきゅうにまともな考えがうかんできます。モモがそういう考えをひきだすようなことを言ったり質問したりした、というわけではないのです。ただじっとすわって、注意ぶかく聞いているだけです。
 モモを相手に話をしていると、自分の中に何らかの解決策が浮かんでくるというのですね。

(5)   なぜモモは話が聞けたのか
 モモにはそれができたのです。自分の話をせずに、黙って最後まで人の話に耳を傾け続けることができた。なぜカウンセラーでもないモモにそんなことができたのか。それは、モモかある豊かさを自分の中に持っていたからだと思います。
 とにかく、モモの心はこのように満ち足りていたのです。それこそが、モモが人々にパワーを与えることができた理由ではないでしょうか。つまり、空っぽの心で相手に話を合わせているわけではなく、自分の中に星々や音楽が満ちているからこそ、相手の話をいつまでも聞くことができたのです。

以下は、後に書きます。
(6)   大きな物語と小さな物語
(7)   ベッポとジジ
(8)   いにしえの時を知るベッポ
(9)   完璧な三人と、四つ目の異物
(10)人に何かを話すということ

<出典>
河合俊雄(2020/8)、ミヒャエル・テンデ『モモ』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)




2020年7月29日水曜日

(2045)  同性との関係 /男と女の違い(14)



◆ 最新投稿情報
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(K1186) (過食/拒食)食事はまだ出てこないのかな(2) / 認知症の人の不可解な行動(26) <認知症>
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☆☆
男と女では、人間関係の構造が違う。男同士は完全に縦社会、女同士は横のつながりを大事にする。年齢、地位、肩書…、男は、上下を把握してから人間関係を結ぶ。一方女性は、年齢や肩書の上下を気にする習慣がない
☆☆
 
  同性との関係
 
A)   ここが違う
男: 男は縦社会で生きている
女: 女は横社会で生きている
 
B)   相手のまわりの人間関係について話すとき
男から女へ: 仲良しなんだね
女から男へ: ○○さんとは、どっちが先輩?
 
 
【展開】
 
A)   ここが違う

男: 男は縦社会で生きている
 年齢、地位、肩書き … 男は、上下関係がはっきりしないとソワソワします。
 男同士の人間関係はひとことで言えは体育会的。男たちはいつでも年齢を気にします。
 年齢という絶対的な上下関係かないと落ち着かず、ついカで相手をねじ伏せて「上」になろうとするのです。
 お互いの年齢もわからす、職業もわからず、肩書きもわからない状況だと、不安でとう接していいかわからないのです。
 男性は肩書きを与えられるとやる気が出る生き物です。なぜなら年齢と同じく、そこに上下関係が生まれるからです。

女: 女は横社会で生きている
 いっぽう女は、男性のように年齢や肩書きの上下を気にする習慣はありません。初対面のパーティなどでも、年齢に関係なく、すぐに打ち解けて歓談できるのは、女性ならではの特技てす。「自分たち女は弱者だ」という意識が強く、「強い男」に対抗するべく女同士で団結しようとします。
 しかし、女の団結力は諸刃の剣にもなります。「横社会」ならではの辛さもあります。女子の人間関係は「みんな仲良し」で「友達と一緒にトイレに行く」世界なので、その「つるむ」ルールからはみ出すことができません。


B)   相手のまわりの人間関係について話すとき

男から女へ: 仲良しなんだね
 自分のまわりの人間関係を尊重されると、安心できます。逆に「〇〇さんはああだ、xxさんはこうだ」と分析されたりけなされたりすると、落ち着きません。

女から男へ: ○○さんとは、どっちが先輩?
 上下関係が定まらないと落ち着かない相手には、年齢や肩書きを確認してあげましよう。「あいつは同期だけど年はひとつ上」とか「直属の上司じゃないけど、リーダー」など、いそいそと説明してくれます。
 
 
<出典>
五百田達成、『察しない男、説明しない女』、No.03




 

(2044)  マニュアルの作法


◆ 最新投稿情報
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(K1185)  産経新聞「ラストメッセージ」 / 悲しみ癒やす最後の言葉(3) <終活>
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☆☆
マニュアルに使われてはいけない。マニュアルは使うためにある。企業が従業員を使うために、マニュアルを作っている。それはそれでよい。しかし、私たちの人生を送るのに、マニュアルに頼ってはいけない
☆☆

 「マニュアル通りにしなさい」と言われて、
その通りして、楽しいわけがない。

 マニュアルを使っているのではなく、
マニュアルに使われているからだ。


 何をすればよいか分からない時に読むのは、
本来のマニュアルではない。

 何かしたいことがあって、
どのようにすればよいのか分からない時に読むのが、
マニュアルだ。


 「何かしたいことがある」というのは、
外から与えられるものでなく、
内から沸き起こるものである。

 先ず、これがあること。
それで、次に、マニュアルを使い始める。


 これが、正しいマニュアルの作法だ。
これは、マニュアルの使い方の作法である。

 そして、そのような目的で作るのが、
マニュアルの作り方の作法だ。


 企業がつくるマニュアルや、本を売るために親切そうにささやきかける「生きるためのマニュアル」などに毒されてはいけない。
 使う分にはよい。しかし、使われてはいけない。

<出典>引用無し。オリジナル
マニュアルは、使うためにある。添付は、
https://www.city.kashiwazaki.lg.jp/sangyo_business/jigyoshonei/keieishien/20089.html


2020年7月27日月曜日

(2043)  ミヒャエル・エンデ『モモ』(0) / 100分de名著



(2043)  ミヒャエル・エンデ『モモ』(0) / 100de名著


◆ 最新投稿情報
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(K1184) (過食/拒食)食事はまだ出てこないのかな(1) / 認知症の人の不可解な行動(25) <認知症>
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☆☆
時間泥棒である「灰色の男たち」は、物語の舞台となる町の人たちをうまく説得して時間を節約させ、その時間を時間貯蓄銀行に預けさせる。この男たちの企みにより、町の人たちは次第に心の余裕を失っていく
☆☆

100de名著」 ミヒャエル・エンデ『モモ』が、83()から始まります。Eテレ。
放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55
 及び        午後 00:00~00:25
講師は、河合俊雄(京都大学教授、臨床心理学者)


<全4回のシリーズ>  いずれも8
【はじめに】  子どもと大人の物語

第1回  3日放送/ 5日再放送
  タイトル: モモは心の中にいる!

第2回  10日放送/ 12日再放送
  タイトル: 時間を奪う「灰色の男たち」

第3回  17日放送/ 19日再放送
  タイトル: 時間とは「いのち」である

第4回  24日放送/ 26日再放送
  タイトル: 「受動」から「能動」へ


【はじめに】  子どもと大人の物語

 『モモ』は、ドイツの児童文学作家ミヒャエル・エンデが1973年に発表したファンタジー作品です。『モモ』はいわゆる児童文学ですが、特に大人向きの本であるように感じます。なぜかというと、この作品には強いメッセージ性があり、構造がクリアだからです。

 『モモ』が持つ強いメッセージ性――その象徴が、時間泥棒である「灰色の男たち」という登場人物です。灰色の男たちは、物語の舞台となる町の人たちをうまく説得して時間を節約させ、その時間を時間貯蓄銀行に預けさせます。この男たちの企みにより、町の人たちは次第に心の余裕を失っていく。灰色の男たちとは、いったい何を表しているのでしようか


 私(=講師=河合俊雄)は臨床心理学者です。文芸評論家でも作家でもありません。そんな私が『モモ』という作品に関心をもつ理由は大きく三つあります。

(1)        この物語がファンタジー作品だからです。私の行っている心理療法では、夢や箱庭などのイメージの表現、つまりファンタジーを大切にします。
(2)        『モモ』には、ファンタジーの描き出すこころの深層と現実、こころの古い層と、現代のこころのあり方の対立が見られるからです。
(3)        『モモ』には「主体が立ち上がる」というテーマが描かれているからです。物語の主人公モモは身寄りのない、けれどユニークな女の子で、最初はずっと受け身の存在です。しかし、彼女は最後に自分から立ち上がり、灰色の男たちから町の人たちを救います。


<出典>
河合俊雄(2020/8)、ミヒャエル・テンデ『モモ』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)



(2042)  前棋聖の後ろ姿が語るもの



◆ 最新投稿情報
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(K1183)  日本の勝因は高齢者施設(コロナ) <高齢者施設>
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☆☆
手付き、仕草、息遣いなどで相手が形勢をどう判断しているか、なんとなく分かるようになりますが、自信ありという感じで△86桂を指されて、そこでこっちも手が止まったので、この将棋は負けたなと覚悟しました
☆☆  「渡辺明ブログ」より

 将棋は残酷なゲームだ。対局者のどちらかが投了を告げて終局を迎える。負けを認め、頭を下げるという最もつらい手続きを経なければ、どんな名局も完成しない。

 国民的な話題となった第91期棋聖戦五番勝負は、藤井聡太新棋聖の初々しい笑顔がコロナ禍に渇いた世を潤す一方で、渡辺明前棋聖(棋王・王将)の潔さにも胸を打つものがあった。

 「負けました」と通る声で投了を告げ、「すごい人が出てきた」と主催者インタビューに包むことなく答え、敗北の痛みをなぞる感想戦にも真摯(しんし)に応じていた。ネット中継に映った後ろ姿が、印象に強い。

 「負け方がどれも想像を超えてるので、もうなんなんだろうね、という感じです」

 新棋聖をたたえる言葉には、不思議と自虐の響きも悲愴(ひそう)感も見当たらない。むしろ勝負師としての哲学、懐の深さ、他日を期す決意のすごみを覚える。負けを受け入れるとは、そういうことなのだろう。


<出典>
森田景史
 前棋聖の後ろ姿が語るもの
【日曜に書く】産経新聞(2020/07/26)

添付図
「渡辺明ブログ」



2020年7月26日日曜日

(2041) 【来月予告】ミヒャエル・エンデ『モモ』。【投稿リスト】吉本隆明『共同幻想論 / 100分de名著



◆ 最新投稿情報
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(K1182)  コクヨ「エンディングノート」 / 悲しみ癒やす最後の言葉(2) <終活>
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【来月予告】 ミヒャエル・エンデ『モモ』 / 100de名著
ひとりの少女があなたに教えてくれること

少女モモには、人びとの話に耳を傾けるだけで、彼らに自信を取り戻させる不思議な力があった。そこに現れたのが「灰色の男たち」。彼らは街のみなに時間の節約をもちかけ、浮いた時間を奪いとる「時間どろばう」だった! 児童文学の傑作と名高い『モモ』が持つ真価は、せわしなく生きる大人にこそ向けられている。時間の価値とは? 豊かな生とは? そして死とは? さまざまなメッセージに満ちた物語の神髄を、臨床心理学の見地から読みとく。

20208月号 (100de名著)
ミヒャエル・エンデ『モモ』
講師:河合夋雄 (京都大学教授、臨床心理学者)
 

 
【投稿リスト】 カント『純粋理性批判』
公式解説は、
 
私が書いたのは、
 
(2017)  吉本隆明『共同幻想論』(0) / 100de名著

(2019)  吉本隆明『共同幻想論』(1-1) / 100de名著

(2020)  吉本隆明『共同幻想論』(1-2) / 100de名著

(2025)  吉本隆明『共同幻想論』(2-1) / 100de名著

(2027)  吉本隆明『共同幻想論』(2-2) / 100de名著

(2032)  吉本隆明『共同幻想論』(3-1) / 100de名著

(2034)  吉本隆明『共同幻想論』(3-2) / 100de名著

(2037)  吉本隆明『共同幻想論』(4-1) / 100de名著

(2039)  吉本隆明『共同幻想論』(4-2) / 100de名著
 
 
<出典>
山崎彰容(2020/7)、吉本隆明『共同幻想論』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)



2020年7月25日土曜日

(2040)  松本清張と推理小説 - 推理小説の世界を変えた作家 / あの頃日本人は輝いていた(11)



◆ 最新投稿情報
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(K1181)  コロナ禍で少子化が改善? <少子高齢化>
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清張は言う。
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創作ものには、創作もののよさがある通り、実話ものにはそれだけの面白さがあって読まれるので、必ずしも創作ものの衰退が実話ものを勃興させたとはいいきれない。むしろ、両方の面白さが補い合って読まれている
☆☆
(『実感的人生論』)

 「清張以後」という言葉がある。
 松本清張が発表した推理小説によってそれまでの推理小説の考え方が変わったというのだ。「清張以前」 の推理小説は江戸川乱歩の作品に登場する明智小五郎、横溝正史の金田一耕助、
コナン・ドイルのシャーロック・ホームズなど名探偵が現場に残されたわずかな遺留品、関係者の言動などから鋭い推理を働かせ、巧妙きわまる完全犯罪の謎をあざやかに解き明かすといったものだった。
 松本清張はこうした探偵小説と呼ぶ方がふさわしい推理小説のイメージを一変させた。犯罪を犯す者の動機を掘り卞げ、その背景にある 貧困、差別など社会の構造まで踏み込んだのである。

 松本清張が書く推理小説の魅力はどこにあるのか。清張自身次のように述べている。
 「私が推理小説を書きはじめたのは、自分ではこういう作品を読みたいという気持ちから、自給自足的な意味でためしに書いたというにほかならない。私は自分のこの試作品のなかで、物理的トリックを心理的な作業に置き換えること、特異な環境でなく、日常生活に設定を求めること、人物も特別な性格者でなく、われわれと同じような平凡人であること、描写も『背筋に氷を当てられたようなぞっとする恐怖』の類いではなく、誰もがロ常の生活から経験しそうな、また予感しそうなサスペンスを求めた。これを手っ取り早くいえば、探偵小説を『お化け屋敷』掛小屋からリアリズムの外に出したかったのである」

松本清張(19091992)
 福岡県生まれ。高等小学校卒業後、職を転々とした後、朝日新聞西部本社広告部員に。「或る『小倉日記』伝」で芥川賞受賞。「点と線」「ゼロの焦点」などで社会派推受理小説の新分野を開拓。幅広い読者層に受け入れられ推理小説のブームを巻き起こした。その後、歴史小説、古代史論、ノンフィクションの作品も数多く発表。映画化、テレビドラマ化される作品が多い。
 
<出典>
池井優、『あの頃日本人は輝いていた』(芙蓉書房出版)
 
写真は、上掲、



(2039)  吉本隆明『共同幻想論』(4-2) / 100分de名著



◆ 最新投稿情報
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(K1180)  自粛生活 高齢者に健康不安 <体の健康>
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吉本隆明が生まれたのが1924年。21歳の時、終戦(1945)。戦争の前後を体験。「共同幻想論」が刊行されたのが1968年、東大安田講堂の攻防が1969年。全共闘世代の学生らに熱狂的迎えられた
☆☆

第4回  27日放送/ 29日再放送
  タイトル: 「個人幻想」とはなにか--人間関係の相対化の方法

放映は、   月曜日 午後 10:25~10:50
再放送は、  水曜日 午前 05:30~05:55
 及び        午後 00:00~00:25


【テキストの項目】
(1)  「個人幻想」は「共同幻想」に逆立する
(2)   芥川龍之介の自殺
(3)   共同幻想に対応できる個人幻想はあるのか
(4)  「自立」と「沈黙の有意味性」

(5)   漱石作品の中に見た「大衆の原像」
(6)   ことばによる抗い
(7)   現代に生かすために


【展開】
(1)  「個人幻想」は「共同幻想」に逆立する
(2)   芥川龍之介の自殺
(3)   共同幻想に対応できる個人幻想はあるのか
(4)  「自立」と「沈黙の有意味性」
以上は、既に書いた

(5)   漱石作品の中に見た「大衆の原像」
 吉本は漱石の作品に、むしろ大衆の原像を読み込んだのです。日常生活、と私たちは比較的簡単に言うだろう。だが容易どころか緊張の連続、少しでもカを抜けば瓦解するものだ。生活とは、秩序を支え続ける不断の営みのことではないのか。子を産み、子を育て、老いた親を看取り、そして自分もまた老いて死んでゆく。ただそれだけのことの中に、ささやかな、誠にささやかだが劇的な一人の人生が隠されているではないか。

(6)   ことばによる抗い
 文学とは、徹底的に個人の人生にこだわる営みである。逆に言えば、徹底的に政治的に人間を見ることへの、ことばによる抗いである。人間をマッスとして取り扱い、自分の政治目的に利用できるという考えを「技術主義」と名づければ、技術主義こそあらゆる共同幻想が隠しもつ毒である。解毒はことばによって、生活の「裂け目」を描くことによってなされるのだ――これこそが吉本のメッセージであり、個人幻想だと私は思うのです。

(7)   現代に生かすために
 情報こそ、現代最大の「共同幻想」に他なりません。多くの人が毎朝、会社の机に座るとパソコンを立ちあげます。そこに羅列されている不祥事、タレントのスキャンダル、政治の醜聞を見て、私たちはそれを「現実」だと思い込みがちです。 … しかし吉本ならば、こうしたスキャンダルの羅列を決して現実とは思わないでしよう。それよりもパソコンの画面から眼を離し、一旦深呼吸をして、隣の同僚と会話すること、組織を改良するための面倒な会議の連続をいとわないこと、そうした些末な諸事の積み重ねこそ現実だと言うにちがいありません。
 政治的立場の左右など関係ないのです。私たちは常に、共同幻想がもつ魔力に惹きつけられやすい存在です。吉本が考える自立した個人とは、一つの情報を信じ一気に凝集するのとは正反対の存在です。
 「刹那的な共同体に呑み込まれない個人幻想を、手にする。」

<出典>
山崎彰容(2020/7)、吉本隆明『共同幻想論』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)



2020年7月24日金曜日

(2038)  日本を発信(14)  Court Battle Over Comfort Women Film Taints Japanese University’s Research Ethics Record


 (慰安婦問題を扱った映画をめぐる法廷闘争?問われる日本の大学の研究倫理)


      最新投稿情報
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(K1179) (着衣の混乱)お気に入りの服を着替えたくない(2) / 認知症の人の不可解な行動(24) <認知症>
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☆☆
米国のいわゆるフェイクニュースの代表であるCNNなどと同じ手法。フィルム全体が、切り取りと歪曲、捏造だらけである。我々が受けたインタビューの一部のみを切り出し、そこを徹底的に反証させるというやり方
☆☆
(当事者である藤木 俊一氏の主張)


 世界にも知られる日本の私立大学、上智大学(東京都千代田区)でいま、同大の研究倫理と大学院生への指導の在り方が揺らぐ問題が持ち上がっている。
 同大に在籍していた大学院生が慰安婦問題をテーマにした映画を制作。出演者たちが、制作者側にだまされたとして映画の制作者や大学側に対し、映画の上映差し止めや損害賠償などを求めて裁判をおこす事態となっているためだ。

 上智大学グローバル・スタディーズ研究科の大学院生だったノーマン・ミキネ・出崎氏(映画の公式プログラムではミキ・デザキ)は2016年5月から17年2月にかけて、同氏が「歴史修正主義者」と呼ぶ8人のコメンテーターたちに接触し、研究の一環で映画制作をするとしてインタビューを申し込んだ。
 8人は、外交評論家の加瀬英明、テレビタレントのケント・ギルバート、ジャーナリストの櫻井よしこ、「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝、「テキサス親父」として知られるトニー・マラーノ、同日本事務局長の藤木俊一、「なでしこアクション」の山本優美子、衆院議員の杉田水脈の各氏で、全員がインタビューに応じた。

 ところが、8人のインタビューは、独断的な主観による編集を経て、映画『主戦場』となり、18年10月、韓国の第23回釜山国際映画祭を皮切りに、新型コロナの緊急事態になるまで世界各国で上映された。日本でも19年4月20日から一般公開が始まり、20年1月末までの9カ月間、異例のロングラン作品となった。

 インタビューを受けた人たちは出崎氏と配給会社、東風を相手取り、映画の上映差し止めと損害賠償を求めて提訴。さらに、研究倫理によって守られるべき研究協力者の人権を侵害しているとして同氏と指導教官の中野晃一教授を告発する事態へと発展した。


<参考資料>
  原文 英語
Court Battle Over Comfort Women Film Taints Japanese University’s Research Ethics Record

  新聞記事
上智大と半日映画?
産経新聞(2020/07/24)


<前回>
(2008)  日本を発信(13)  [Mythbusters] Self-righteous Foreign Correspondents in Japan Claim Freedom to Be Offensive



(2037)  吉本隆明『共同幻想論』(4-1) / 100分de名著


◆ 最新投稿情報
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(K1178)  個人Blog 7月中旬リスト <サイト紹介>
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国とは何か。共同幻想である。その共同幻想に対抗できるのは何か。個人幻想である。その個人幻想とは何か。ニーチェにとっての「貴族道徳」がそれに当たる。しかし、「貴族道徳」=吉本の「個人幻想」ではない
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第4回  27日放送/ 29日再放送
  タイトル: 「個人幻想」とはなにか--人間関係の相対化の方法

【テキストの項目】
(1)  「個人幻想」は「共同幻想」に逆立する
(2)   芥川龍之介の自殺
(3)   共同幻想に対応できる個人幻想はあるのか
(4)  「自立」と「沈黙の有意味性」

(5)   漱石作品の中に見た「大衆の原像」
(6)   ことばによる抗い
(7)   現代に生かすために


【展開】
(1)  「個人幻想」は「共同幻想」に逆立する
 最終回では、共同幻想を「幻想」として相対化するための手がかりを探るべく、「個人幻想」に焦点を当てて考察します。
 理念的に言えば、共同体と個人には緊張関係が存在している(逆立)はずである。しかし、共同幻想にたいし私たちは冷静ではいられない。嫉妬や生死にまつわる複雑な感情をもって国家を抱きしめたり、突き放したり埋没したりしている。

(2)   芥川龍之介の自殺
 出身階級にも小説家として所属する高尚な社会にも、自分の居場所を見出せないのです。この二重の自己嫌悪が芥川を蝕み、精神の消耗を強いて、自死へと追い込んでいった。

(3)   共同幻想に対応できる個人幻想はあるのか
  芥川は都市下層庶民の共同幻想にも、知識人の共同幻想にも所属できませんでした。どこにも居場所をもたない芥川は、自死という方法でしか共同幻想から離脱し、相対化することができなかった
  母胎に保護された常民の生活からは、逆立のきっかけを見出せない
  恐らくニーチェにとっての「貴族道徳」こそ、吉本の個人幻想に該当する
  共産主義の団結もまた共同幻想がもつ危険性から逃れることができない

(4)  「自立」と「沈黙の有意味性」
 吉本は彼ら大衆に可能性を感じます。日々生きていると、あらゆる現実的な課題が否応なしに降ってきます。本人が好むと好まざるとを問わず、人間が生活している限り、次々に襲いくる諸事に一つひとつ対応する大衆の姿に、吉本は「自立」の思想的拠点を見いだしました。個人幻想のモデルを探りだそうとしたのです。
 生活者は普段から、知識人のように声高に政治的意見をまくし立て、激しく国家を論じることはない、日々の生活と労働を黙々とこなし、人ひとりなすべきことをやっています。自分の生活リズムを決して手放さない、この不器用さを「沈黙」と名づけよう。 … 知識人の誘導によって政治問題に駆り立てられ、走りだすのではなく、生活が乱されるから政治に注目するのだ。こうした態度を「沁黙の有意味性」と呼ぶことにしよう。

以下は、後に書く
(5)   漱石作品の中に見た「大衆の原像」
(6)   ことばによる抗い
(7)   現代に生かすために

<出典>
山崎彰容(2020/7)、吉本隆明『共同幻想論』、100de名著、NHKテキスト(NHK出版)