「死の受容」を誰のために探求しているのか。「死の受容」を「科学している」限り、「本人にとっての『死の受容』」に辿りつけるか危うい。
大切なのは、「死の受容」の「一般論」ではなく、「私はいかにすれば、より安らかに死を受け入れることができるのか」という「個別解」であろう。「貴方の正解」と「私の正解」は違うかもしれない。
いかにすれば「彼に死を受容させられるか」ではなく、いかにすれば「私が死を受容できるか」を求めたい。それが、いかにすれば「彼に死を受容させられるか」という課題にヒントを与えるのではないか
「死の受容」を誰のために探求しているのか
(1)
医療者にとっての「死の受容」
(2)
研究者にとっての「死の受容」
(3)
宗教者にとっての「死の受容」
<各論>
(1)
医療者にとっての「死の受容」
末期患者が死を受容的に考えてくれればターミナルケアはもっと容易になるだろうと、医療者が考えるのも無理はない。患者が死を受容してくれれば、患者のコンプライアンスがよくなると期待される。「あの患者のコンプライアンスが良い」とは、医療者が服薬や食事の指導をするに際して、患者が医療に協力的であることである。Medical compliance (メディカル・コンプライアンス)は、医療者側が患者側に対する評価に使う用語である(P.38)
医療者の願望があまりに強いために、患者への教育によって「死の受容」は可能という錯覚に囚われているのではないか
(2)
研究者にとっての「死の受容」
キューブラー・ロスのがん患者の末期医療においける死の受容の研究が相次いで発表され、なかでもそれに至る五段階が知られるに及んで、この受容の大切さが、認識されるようになった。(P.39)
この理論が実践に役立ったことは事実であるが、キューブラー・ロス自身が死を受容できなかったのも事実である。「一般論としての『死の受容』」と、「私の『死の受容』」は別物である。
(3)
宗教者にとっての「死の受容」
===== 引用 はじめ P.39
当時、この死の受容の重大性を提唱して、私を困惑させることが起こったことを憶えている。とくに、キリスト教系の看護婦さんたちの間で、どのようにして患者に死の受容をしてもらえるようにするか、またクリスチャンと無宗教の方々では、どのような死の受容において差異があるかの、病棟での看護についての研究発表がなされるようになった。
これはこれでよいのだが、私がクリスチャンであるのを知って、得意顔に良い結果を告げる人々がおり、だからどの病院も宗教を取り入れなければいけないという主張をなされる人がいて、ありがたいがそのような簡単なことでないので閉口したことを憶えている。
===== 引用 おわり
本人ではない誰かが「死の受容」を追い求めても、必ずしも本人の「死の受容」につながるとは限らない。
「死の受容」を「科学する」うえでの二つの課題がある。
(1)
人間をトータルに見る臨床的な学問が必要
(2)
主体者として巻き込まれながら観察する態度が必要
<各論>
(1)
人間をトータルに見る臨床的な学問が必要
===== 引用 はじめ P.40
… 死の問題のように、人間の問題が総合的に全人的に扱われなければならないところでは、この近代医学の欠陥がもろに鮮明になるのである。専門である「科」を超えて、人間をトータルに見る臨床的な学問の必要性である
===== 引用 おわり
(2)
主体者として巻き込まれながら観察する態度が必要
===== 引用 はじめ P.40
人間を対象とするのではなくて、主体者として巻き込まれながら観察する、本来の科学的な態度が必要とされるのである
===== 引用 おわり
医療者や、学者や、宗教者にまかせるのではなく、私たちか自身がいかに「死の受容」に直面するかが、問われる。
次回に続く
樋口和彦、『死は生の中で常に成長している』、死を受容する 心理学、『死生学がわかる』、AERA Mook(Number 60,2000)、朝日新聞社、P.38 ~ P.41
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